近衛篤麿
このえあつまろ(1863−1904)
明治時代後期の政治家。号は霞山。公爵、五摂家筆頭の家門。文麿の父。文久三年(一八六三)六月二十六日、従一位近衛忠房の長子として京都に生まれた。明治十二年(一八七九)大学予備門に入ったが病のため一年で退学、以後和漢英の学を独習。同十七年七月華族令の制定によって公爵に叙せられる。翌十八年から二十三年までオーストリア・ドイツに留学、帰朝とともに貴族院議員となる。二十八年学習院長となり没年までその地位にあった。
l 彼は近代日本において華族がその社会的地位を確立し、政治的社会的に皇室の「藩塀」としての役割を果たすことを念願した。この見地から、彼は学習院の教育組識および財政的基礎の確立に尽力し、特に華族の子弟が外交官・陸海軍人になることを希望した。のみならず華族の経済的自立のために並々ならぬ配慮を払った。
l このようなアリストクラシイの理想から、貴族院議員また貴族院議長(明治二十五年―三十六年)として彼は一貫して藩閥官僚支配に反感を示し、歴代藩閥政府に対し厳しい批判的態度を維持した。第二次伊藤内閣の対議会策に対する攻撃、また第二次松方内閣および第二次山県内閣の入閣要請拒否などその例である。
l しかし他方彼は、当時の政党についても、「国家」を忘れ「官尊民卑」の風潮に汚染され猟官主義に走る「徒党」として痛難した。
l 近衛はまた対外問題とくに中国をめぐる国際情勢に深い関心を抱き、日清戦争以後ははなはだ積極的な政治活動を展開した。すでに明治二十四年に東邦協会の副会頭に就任していた彼は、日清戦争を契機として西洋帝国主義による中国分割の危機が現実の日程に上って来たことによって、その国家主義に激しい刺戟を受けた。明治三十一年同文会を、ついで犬養毅らの東亜会を合わせて東亜同文会を組織しみずからその会長となった。それは、前記極東情勢との対応から民間の国家主義的諸団体の大同団結を計ったものであり、財政上ほとんど外務省の機密費に依存した半官半民的組織であった。そして同会は爾後アジア主義的立場において「支那保全・朝鮮扶掖」をスローガンとし、外務省および軍と密接に連携しながら中国・朝鮮に対する政治的文化的活動の推進母体となった。三十三年に中国に南京同文書院(のちの東亜同文書院)を設立したのはその顕著な一例である。三十三年の義和団事件を転機として満洲・朝鮮をめぐる日露関係が緊迫するとともに、近衛は中国に関し東亜同文会の組織を通して「南方諸総督との連絡」を密にし、朝鮮に対する日本の政治的影響力を強めるため積極的な活動をなした。さらに国内では対露強硬論をもって政府に圧力を加え、また国民世論を促す目的のもとに東亜同文会系勢力を主軸としたより広い組織として三十三年九月国民同盟会を結成し対露強硬論の先頭に立った。さらに同三十六年には対露主戦論のもとに対露同志会の結成にも尽力した。同年貴族院議長を辞し枢密顧問官となる。同三十七年一月一日死去。四十二歳。墓は京都の大徳寺にある。
近衛文麿
このえふみまろ 一八九一 - 一九四五
大正・昭和期の政治家。明治二十四年(一八九一)十月十二日公爵近衛篤麿の長男として東京に生まれた。同年実母衍子(前田慶寧三女)を、そして十四歳で父を失った。三十七年一月父の死とともに襲爵し、近衛家の当主となった。四十二年学習院中等科を卒業し第一高等学校英文科に入学し、四十五年卒業して東京帝国大学哲学科に入学したが、
l 河上肇らをしたって京都帝国大学法科に転じ、ここで西田幾多郎・戸田海市らから影響を受けた。大正三年(一九一四)五月および六月の『新思潮』にオスカー=ワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載し、発売禁止となった。五年貴族院議員。六年京大を卒業し、内務省地方局の見習となった。
l 七年「英米本位の平和主義を排す」という論文を『日本及日本人』誌上に発表し、持てる国と持たざる国の対立という図式を公表したが、以後の近衛の行動の大きな枠組となったと思われる。八年パリ講和会議に随員として出席した。十年貴族院改革の必要を感じ、森恪・山口義一らと憲法研究会を設け、また翌年貴族院の研究会に入った(十三年には筆頭常務にえらばれた)。また十年には日本青年館を設立し、その理事長に就任した。十一年東亜同文会副会長に就任。昭和二年(一九二七)研究会を脱会し、不偏不党を標榜して火曜会を公侯爵議員をもって組織し、その幹事となった。六年貴族院副議長に就任。この前後から木戸幸一・原田熊雄らとともに政権問題について元老に意見を述べている。また満洲事変に対し強い賛成の態度を表明した。八年貴族院議長に就任。このころから首相候補として下馬評に上がるようになった。九年日米関係の悪化を憂い訪米、アメリカの政界・財界の巨頭らと会談。十一年二・二六事件の直後、元老西園寺は近衛を次期首相に奏請し、大命降下したが拝辞した。この年東亜同文会会長に就任。翌十二年六月四日林内閣のあとを受けて組閣の大命降下し、第一次内閣を組織した。翌七月日華事変が勃発し、これへの対応がこの内閣の最大の課題となったが、結局事変収拾には成功しなかった。また事変との関連で軍部を中心に推進されたいわゆる「革新」政策をおおむね実行し、国家総動員法などを成立させ、国民精神総動員運動を展開し、またその「革新」的政策を推進すべき「近衛新党」計画に関与した。しかし十三年に入って陸軍が推進した防共協定強化問題をめぐって閣内に対立を生じ、翌十四年一月内閣総辞職を行なった。同月首相となった平沼騏一郎に代わって枢密院議長に就任するとともに平沼内閣の無任所相を兼摂した。十五年に入って欧州戦線でのドイツの動きが活溌になるにつれて、近衛を党首とする新党への待望が高まり、四月には木戸幸一・有馬頼寧とともに新党結成を決意し、新政治体制の必要を主張して六月二十四日枢密院議長を辞任した。七月十七日組閣の大命を受け、陸・海・外相予定者を荻外荘に招いて会談し(荻窪会談)、枢軸強化、対ソ関係の調整、日華事変の遂行、対米英仏蘭方策、新政治組織の結成などを協議の上、同月二十二日第二次内閣を組閣した。九月二十七日日独伊三国同盟締結、十一月三十日汪政権承認、翌十六年四月十三日日ソ中立条約調印と、ほぼ荻窪会談の線で外交を進めたが、十五年末からの非公式の、のち外交ルートにのった日米交渉をめぐり、また十六年六月二十二日の独ソ開戦への対応をめぐって松岡洋右外相との対立が激化した。また新体制は十五年十月十二日大政翼賛会として発足したが、「革新」派と「復古」派の対立がはげしく、この年暮に平沼・柳川平助を入閣させ、大政翼賛会から「政治性」を除去し、政府の外廓団体化するに至った。松岡問題が主因となって十六年七月十六日第二次内閣は総辞職し、翌日大命は再び近衛に下り、十八日直ちに第三次内閣を組閣した。この内閣で近衛は、すでに緊迫した状況の中での日米交渉を成功させることに全力を挙げたが、すでに九月六日の御前会議で十月中旬までに和戦の決定をするという決定をしており、その十月中旬になっても交渉の進展がなく、交渉打切りを主張する東条英機陸相と対立し、十月十六日内閣総辞職を行なった。太平洋戦争開戦後も戦争の将来について憂慮していたが、十七年ごろから次第に早期和平のため陸軍皇道派と海軍を連携させて東条ら陸軍主流に代わらせようと努力し、吉田茂・小畑敏四郎・真崎甚三郎らと連絡をとって活動した。二十年二月早期終戦を天皇に上奏(「近衛上奏文」)、七月天皇に召されてソ連への和平仲介依頼特使を望まれこれを承諾したが、結局実現せず敗戦を迎えた。敗戦後の二十年十月マッカーサーから憲法改正の研究調査を示唆され、内大臣府御用掛として改正案の起草に従事し、十一月改正案を奉答したが、この前後からGHQの態度が変化し、十二月六日戦争犯罪人容疑者として逮捕令が発せられた。十二月十六日早朝「所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て裁判を受けることは、堪え難いことである」として自決。五十五歳。京都大徳寺に葬られた。法名は荻外院殿象山道賢。近衛は聡明な政治家として人気があったが、決断と断行力に欠けていたと評された。西園寺公望から後継者として期待されていたが、「革新」派として明らかに異なった政治姿勢を示し、しかも「近衛上奏文」ではそれをみずから批判するなど、昭和前期の多難な時代にゆれ動き、その意味でも昭和前期を代表する政治家であったといえよう。なお著書に『欧米見聞録』『清談録』『平和への努力』『失はれし政治』などがある。
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