2010年12月9日木曜日

俄国思想家 以赛亚 伯林 彭淮栋译

1. 我可能有误,这是由于我孤陋寡闻,而非由于我对一己见解的效力怀有不可动摇的信心。

导论:复杂的慧见 艾琳凯利

1. 罗素,向莫洛尔解释俄国革命:布尔什维克专制虽然可怕,好像恰是适合俄国的那种政府:“自问一下,要如何治理陀思妥耶夫斯基小说里那些角色,你就明白了。”

2. 伯林的著述,其中心旨趣:人类道德行为随一些未有定论的问题而转移。

3. 他提出了一个论证:在黑格尔与马克思主义基础上建立起来的巨大极权结构不是可怕的变态,而是所有西方政治思想核心潮流里一项主要假设的逻辑发展。这假设是:宇宙有个单一目的,缘此目的,一切现象底下有个根本的统一。这根本的统一,有人说可以经科学探讨而发现,有人说可由宗教启示而获得,又有人说可由形而上思索而掌握。

4. 正由于一元现实回答了人类的根本需求,因此,真正一贯的多元论素来是个相当罕见的历史现象。

5. 一般界定的自由主义看法,极端主义者是对真正价值的扭曲;社会和谐与道德生活钥,寓于温和与中庸。伯林认为,真正的多元论更强硬,在思想上也更大胆,它拒斥所谓一切价值冲突皆可以由综合而获终极解决,以及所谓一切可欲目标都能相互调和之说。

6. 一个人若想认识他的自由的真正本质,道德上这种永远可能的不确定性就是他必须付出的代价。

7. 《自由四论》,他认为,世界上的多元论识见,往往是历史上的幽闭恐惧症(Claustrophobia)的产物,思想与社会僵化时,一致化的要求对人类能力造成不堪忍受的钳制,使人有感而要求“更多光明”。然而历史上居于主导地位的是一元论学说,由此可见,人更容易染患广场恐惧症:在历史危机时刻,由于必须作抉择,人心生出恐怖与精神病症,遂汲汲于让弃道德责任的疑虑与苦恼,换取决定论的见识---或保守,或激的决定论。

8. 1860年代许多破坏偶像的青年“虚无主义者”未加疑问,即接受一种粗糙的唯物主义教条。

9. 别林斯基,俄国知识阶层非人狂热的至高例子,由黑格尔原则,他推论尼古拉一世的专制为宇宙和谐的表征,世人应违逆良心本能加以敬仰。

10. 别林斯基其人具现了俄国这种一贯性里的矛盾:知识分子原本欲求一个能抵制破坏的诱惑的理想,这欲求却导致他们致力于破坏,而以他们的热情与清明暴露了某些社会与人性假设的空洞。

11. 知识阶层大部分成员认为,他们以破坏为主的批评知识初步的工作,是清理地面。

12. 《两种自由观念》,终结:“明白自己的信念只想对有效,而仍毅然支持之,不扰不退,是文明人所以有别于野蛮人之处。”

13. “现代人的最深灾祸之一,不是陷入现实,而实执迷于抽象观念。”

14. 恰达耶夫的论断:俄国若有任何嘉惠举世的教训,这教训就是,世人应不计代价,避其故辙。

15. 恰达耶夫,触发了俄国斯拉夫主义者与西化派之间的思想论证。

阿尔都塞 认识论的断裂

序章

1. 《保卫马克思》《读资本论》。

2. 60年代前半期,是早期马克思的时代。具体讲,是主体论,异化论的时代,是早期马克思的异化论与实存主义的联合时代。事实上,主体性论或人的异化论是有诱惑力的,它以适当的框架来处理诸多现象。

3. 这样的解读方法,把人道主义认作为真理标准,批判人类主体的对象(物的)异化的思维模式。在社会和文化的所有领域都发现异化,将一切都硬性看作异化现象,并且从被构成的异化出发恢复人类的主体性的这种思维模式,大概要无尽无休地再生产出千篇一律的言说吧。

4. 号称什么都能解决的理论,必定带来精神颓废。

5. 阿尔都赛有将传统的马克思的两个类型,用他的话讲是盘踞在马克思主义中的“资产阶级的”意识形态的两个类型经济决定论异化论的主体主义,同时切下来扔掉的痛快感。

未知的阿尔都塞

1. 《保卫马克思》《读资本论》,全面批判从19世纪下半叶到20世纪中叶出现的所有对马克思的解释,一扫渗透于马克思形象中的非马克思的意识形态,提出了切合马克思精神的马克思本来的思想和理论。

2. 书中所运用的方法和思维方式,叫做认识论式的读法。阿尔都塞让我们看到一个与以往以往理解的马克思完全不同的另一个马克思。

3. 阿尔都塞的态度:害怕将自己暴露在世人面前。

4. 我们曾知道的阿尔都塞,只是壮年时期的阿尔都塞。

5. 使他闻名于全世界的若干命题和概念:认识论的断裂、理论上的人道主义批评、非黑格尔的辩证法、结果因果性论、国家意识形态机器论等等。

6. 他在改变思想结构的时候,大体上总是把自己搞得身心憔悴,以加重生来的心病。他是以生命为代价来思索的人。

7. 青年时期的阿尔都塞,是让早期马克思思想与改革派天主教思想共存的。不,毋宁说是被没有做出选择的两种倾向所撕裂着更好。

8. 传统的近代哲学,曾把意识的主体作为实体性的基础或原理来考察人和社会(这种传统中,有认为真理存在于主体一方和认为真理存在于客体一方两种潮流,但哪一种潮流都是在同一舞台上相互化身),而新的“人文科学”则坚决排斥这种近代哲学的考察方法,开辟了以“无主体结构”概念作为方法论武器来考察、分析个人的精神、社会关心和文化现象的道路。所谓结构主义最重要的就是社会科学、人文科学中对事物看法的革新运动。

9. 证明了结构概念在认识层面上的有效性,首先是语言学。索绪尔。列维斯特劳斯的人类学,拉康的结构主义精神分析。将无意识作为“像语言那样被结构化”。当时登场的“人文科学”的认识论的转折,就是将语言结构作为模式的结构论的转折。

10. 60年代末,阿尔都塞开始努力于设法克服马克思主义政治理论的贫困。在政治与国家关系上论述意识形态概念。他以意识形态的国家机器概念为媒介来考察经济的再生产过程与国家的关系,从而导致了建构“社会形成(构成)体”的 概念。

11. 《读资本论》第一卷开头的论文,提出了这样的问题,即社会不是蚁穴和动物群或者物体的块,无非是作为人固有的“社会”,它是怎样生产、再生产的呢?所谓“社会”,严格地讲,是包括经济、政治、法律、国家和意识形态在内的“社会形成体”,马克思“社会与历史科学”的对象正好是这个东西。但马克思以后,就将这一课题付之等闲了。

12. 60年代前半期的马克思研究,他在昂扬的精神状态下所写的文章,异常地敏感,他把他人所无法发现的问题作为问题提出,并顽强地去探究它。病态的蛛丝马迹。

13. 晚年阿尔都塞全力的工作是唯物论问题。不是近代机械唯物论,也不是辩证唯物论。他从马克思出发,在反复的思索中,他离开了马克思,最终追溯到古代唯物论。他把古希腊德谟克利特和伊壁鸠鲁的唯物论系谱乃至“路线”,叫做偶然的唯物论。特别关注伊壁鸠鲁所说的原子运动的“偏斜”,原子间的碰撞和相遇,认为这是真正的唯物论立场。总之,世界的秩序,以及具有起源和目的的解释体系诞生以前的状态,是“偶然相遇”的状态,它构成了不被具有起源和目的的世界解释体系所接纳的“社会实践”的特征。

14. 还有一个构想,这就是“真空”理论。“真空”论,虽然是古代唯物论的重要概念,但晚年的阿尔都塞却要把它锤炼成哲学对象。“真空论”是偶然的唯物论的重要内容

15. 阿尔都塞与重视马克思相比,更重视马基雅维里和斯宾诺莎的政治哲学。

16. 他虽然不抛弃马克思,但只是把马克思看作是偶然的唯物论的历史长河中很多重要人物中的一位思想家。

17. 阿尔都塞是整个一生都被“真空”所迷住的思想家。

18. 回顾20世纪西欧马克思主义思想历史的时候,如果除去了教条主义的马克思主义,还有两种重要的关于马克思的解释理论。

A “主体主义”的马克思主义。乔治卢卡奇《历史与阶级意识》,构想出革命主体的哲学。批评第二国际以经济法则为中心的客观主义和实践的机会主义。

B 阿尔都塞指出从卢卡奇到萨特的主体马克思主义只是对客体主义和经济主义的反命题,与此相反,主体主义和客体主义同时是近代哲学的意识形态,断言马克思主义哲学和科学,抛弃了近代哲学的基础,设定了以新的问题结构为基础的划时代的思考轨道。

1.

『弁名』「性・情・才」七則

『弁名』「性・情・才」七則

一.序

  徂徠の学説は、まだはっきり把握して、十分に理解していないということを始めに断っておきたい。

まず、徂徠の文章が読みにくいと思う。徂徠の抜群の漢文修養、そして優れる博引旁証に臨んで、自分の勉強不足を強く感じた。それに加えて、「道は不可知」、或いは「道は知りきれない」ということを唱える徂徠の学説は、明瞭な構造が欠けているようである。さらに、失って暗くなってしまった「先王の道」を探って、改めて明らかにすることを目的とし、徂徠は恐らく演繹の方法を排除し、「古文辞學」を道具とし、一種の考証学の方法を使っているからであろう。

つまり、徂徠の文章は、少し不親切だと感じている。その理由を、もう一つ挙げると、徂徠の勝手気ままに他人を批判するような態度である。

徂徠は、常に宋儒や仁斎が「古文辞を知らざる」と批判して、一方、「古文」の意味の多岐性を認め、「後世の文を読むに慣るる者は、止だ一条の路径を見る。古文辞を熟読する者は、毎に数十の路径有り[1]という発言をした。そうであれば、徂徠の「古文辞学」の方法論は、自分の学説に逆に噛みつく危険性を孕んでいるのではないかと思う。

また、宋儒たちが、古注のような古典を読まず、古文辞の意味を知らなかったとは、少し有り得ないと思う。宋儒たちは、「古文辞を知らざる」わけではなく、多くの古義を選別することを通じて、先王と孔子の本意に一番近い注釈をつけていたことは、主張してもよいであろう。また、徂徠の古文辞研究に、「断章取義」という特徴があることは、最近の研究者たちに指摘されてきた。[2]

なお、徂徠の批判態度は、誠実とは言えないだろう。徂徠は、宋学に従って、仁斎を批判したことはあった。「弁道」「弁名」においては、基本的に両者ともに否定していた。ただ、ある時は、仁斎の学説を借りて宋儒を批判して、ある時は、宋儒の観点を自分のものにして、論説を進めていく。一層、自分の論証する方便のために、敵と見なされた老荘の考えさえも引用した[3]

宋儒の学説は、「先王の道」と比べてみると、勿論多くの相違点が存在している。ただ、(一種の時代錯誤であるかもしれないが)現在の視角からみれば、宋学は、宋代の儒者たちが「先王の道」、あるいは「原始的な儒教」を発展して、豊富化させた結果であったと考えてもよいだろう。徂徠は、一体どうして必死に宋学を「先王の道」と対立させていたのか?

徂徠が、唯一の「先王の道」の得悟者と自任して、そして、聖人に対する絶対の信仰に据え、宋儒と仁斎に対して「不寛容」な批判を打ち出したのは、「異端審問」のような感じがしている。

二.宋儒の「体用論」と徂徠の「一体論」

朱子学、あるいは宋学、基本的に弁証的な「体用論」[4]という枠組によって展開していた。朱子は、あるいは宋儒、宇宙万物の本源とその動きの規律、「物質ではない存在」すなわち太極と理気の運動というような「本体論」を立てて、さらに人生論と繋げようとしていた。それは、極めて莫大な、複雑な体系構造をもつので、簡単に捉えようとするならば、往々にして、一をあげて万を漏らすような事態になってしまう。

朱子が「道」を論じる一箇所を挙げてみれば、「朱子が言う、道はすなわち天、人、性、命の理であり、事物の当然の則であり、修身斉家治国平天下の術である、と」[5]、「道」は少なくとも三つのレベルに存在していると分かる。徂徠が「道」を「先王の道」に限定して、「民を安んずる」という治国の術としての「礼楽」に要約したのは、ある意味で、朱子の道の第三レベルの理解と合致しているのではないかと思う。ただ、「治国の術」については、「内に転向する」ということを特徴にした朱熹の力点は「格物致知」という「自律」的な修身の営みに置かれ、それと反して、徂徠の力点は「先王の礼楽」という「他律」的な物事に置かれた。

朱子は、「道とは、体、用を兼ねて、隠、費を該ねて言う」と主張した。比べて見ると、徂徠は「道とは礼楽」、「道なる精粗となく本末となく一以てこれを貫くことを」と解した。たが、「徳行」、「言語」、「政事」、「文学」というような四種の科目[6]は、そもそも『論語』に重んぜられ、孔子の道についての教えであったと見なされるが、徂徠はただ「礼楽」(政事と読み換える)という一端によって、孔子の教えの全体を総括しようとすれば、非常に偏っていたのではないかと思う。さらに、六経とは、そもそも儒家一家専有的な経典ではなく、むしろ先秦各学派の共有の経典であった。

『漢書・藝文志・諸子略』によれば、「諸子十家……各々その長ける所を推し上げ、智恵と考慮を窮めて、その意旨を明らかにしようとする。蔽われるところ(道理に暗い)と短い所(短所)があっても、その要旨を合わせれば、亦六経のわかれと末流である(と分かる)」[7]

だから、儒教というものの成立は、孔子、孟子を飛び越し、六経まで遡っては、妥協ではないだろうか。また、儒教の礼楽の伝来、そして真面目に扱ったのは、恐らく僅かに数百年の歴史があるだけである。「道」=「先王の道」=「礼楽」を唱えていた徂徠にとっては、それ以前の日本の歴史はどういうようなものだろうか?

三.担当箇所の要約

1. 「性」について徂徠の考え

性――生の質――宋儒のいわゆる気質なりというように捉え、「気質の性」を認めるが、「本然の性」の存在を拒否する。

Why---Because

A「人の性は万品にして……得て変ずべからず」[8]、一人一人の性が違っているし、その性を変えようとしても不可能。

B「『人みな以て堯舜たるべし』という者も、また聖人は学んで至るべしと謂うに非ず」[9]。聖人の性と人性との間に乗り越えられない壁がある。

C 「本然の性」という説は、学術的に成立できない。[10]

2. 「性善移論」とその移った後の結果

A「教」と「習」の重要性の強調。「先王の教え、詩書礼楽は、譬へば和風甘雨の万物を長養するがごとし。」[11]「善に習えばすなわち善、悪に習えばすなわち悪なり。」[12]

B徂徠の「君子」と「民」に与える解説からみれば、以下のように見られる。「君子と民とは、そのいまだ学ばざるにあたりては、甚だしくは相遠からず、先王の道に習いて以て君子の徳を成すに及んで、しかるのちその民における霄壌の異あるを見ることを言うのみ。」[13]

そうすれば、人間は完全に「教え」と「習い」によって、決められるようである。「性善移論」と「性不変論」とは如何にうまく調和できるのか、問題になった。

C なお人の先王の教えを得て、以てそのを成し、以て六官・九官の用に供する[14]

3. 「復性説」にたいする批判

徂徠は、宋儒の「復性説」が「嬰孩の初に返る」とするようであるが、宋儒は、実は「気質の性を除いて、本然の性に復帰すること」と説いた。徂徠は、「本然の性」を否定した以上は、「本然の性」に基づいた「復帰説」を批判するのは、意味がないと思う。

4. 心情の弁、性や欲との関係

「情」…「喜・怒・哀・楽の心、思慮を待たずして発する者にして、おのおの性を以て殊なるなり。」

「大抵、心・情の分は、その思慮する所の者を以て心となし、思慮に渉らざる者を以て情となす。」

「凡そ人の性はみな欲する所あり、しかうして思慮に渉れば、即ち或いは良くその性を忍ぶ。思慮に渉らざれば、すなわちその性の欲する所あり。」――「心」、性を忍ぶ。「情」、性の欲する所。

「思慮を待たずして発する」、そして「思慮」に渉れるかどうかによって「心」と「情」を弁えるというような分析は、『孟子』・盡心篇上の「所不慮而知者、其良知也」(慮らずして知る所の者は、其の良知なり)からの影響を受けていたと思われる。ただ、徂徠が「心」、「情」、「性」、「欲」に対して、一体どういうような枠組を与えるのか、よく分からない。

四.結びにかえて

 今回、担当した箇所を読む限り、徂徠は宋儒、そして仁斎の学説にたいして批判する火力は意外に弱くなってしまったと感じる。「性・情・才」というような概念に対する修正は、多くは「古文辞」の考察によって成し遂げられるのではなくて、孟子が他人を説得するための発言とか[15]、宋儒が誤って「性善説」と読んだなどというような論拠だけを出してきた。

 もうひとつ不思議なことは、徂徠は「中和の気」[16]をめぐって議論を発し、また「已発」、「未発」を踏まえて論説したことである。「道」の正当性は、宇宙万物(勿論人間を含み)の本源を究めることによって見つけようという宋儒のやり方とちがって、徂徠は聖人の方に道の正当性を求めようとした。だから、ここで徂徠が人間の内面に向けて説いた論説は、興味深い。




[1] 板東さんが521日に発表されたレジメからの引用。

[2] 相原耕作、高山大毅の研究を参照。「徂徠の『論語徴』は、一見、具体的な文脈を重視する注釈のように見えるが、文脈重視のスタイルは、むしろ抽象的・一般的議論を批判し、自在な言語操作によって新たな解釈を導き出すための戦略的な足場として機能していると考えられる。」『助字と徂徠学を中心とする江戸時代の言語論と政治思想の研究・概要』、相原耕作、http://kaken.nii.ac.jp/d/p/15730078

[3] 「義八則」一、p77。「また老子のいわゆる『道を失いてしかるのち徳、徳を失いてしかるのち仁、仁を失いてしかるのち義、義を失いてしかるのち礼』のごときは、これ聖人の道を譏るといへども、また、古人の、古言を以てこれを言いしことを見るべし。その意は仁・義・礼を以て先王の造る所となし、自然の道に非ずとなす。故にこの言あるのみ。」

[4] 簡略にすれば、以下のような表は描かれるが、しかし、朱子學の「体用論」には「体用一源」ということ見落としてはならない。

 理

 形而上

 道

 未発

 中

 静

 気

 形而下

 器

 已発

 和

 動

[5] 『朱子文集』巻67、周礼三徳説。

[6] 『論語』先進篇を参照。

[7] 「諸子十家……各推所長,窮知究慮,以明其指,雖有蔽短,合其要歸,亦六經之支與流裔。」

[8]  P137.

[9] P138.また、この文句の意味はよく分からない。徂徠は、人々はみな「堯舜」になれるということを賛成しているか?

[10] 徂徠の論証はよく分からない。徂徠はまず「本然の性なる者は、ただこれを天に属すべくして、人に属すべからざるなり」ということを論証せずに、判断した。続いては、徂徠は「本然の性」の説によって、禽獣と人の区別をうまく説明できないように理解した。しかし、徂徠は、人間社会の中には、共通的な「本然の性」の存在を取り消したら、一層禽獣と人の区別を弁別できなくなってしまうではないかと思う。

[11] P137

[12] P137

[13] P138

[14] P137

[15]「内外を争い門戸を立てるに出づ」。「人を服せしめる」。

[16] 伝に曰く、「人は天地の中を受けて以て生る」。「然れどもその動きの偏勝して節に中らざるときは、すなわち必ず、中和の気を損なって、以てその恒性を失うに至る」。