2010年6月28日月曜日

『弁名』「仁」四則

一. 徂徠における「仁」

1. 仁・徳・道・聖人(先王)の関係

は、一つのである。

は、(それぞれの性の近き所に従って)に得るところである。

とは、a.「孝悌義より、礼楽刑政に至るまで」の統名であり、先王がこれを立てて[1]、天下後世の人びとがそれによって行うようにさせたのである。[2](『弁名』道十二則1

とは、b「統名であり、礼楽刑政およそ先王の作ったものを挙げて、併せて名付けられる」ことである。(『弁道』3a bを比べて見ると、問題になるのは、仁が制作されたものか、立てられるものか?

聖人は、を制作した作者の先王である。(『弁道』1

2. 仁の内容

「仁とは、人に長になり、民を安んずるの徳をいうなり」。要するに、仁とは、人類共同体においては、上にある首領(君主)は、下にある民を安らかにさせる徳である。その故に、「安民」するために、先王が造った「礼楽刑政は仁に非ざるはなし。」(『弁名』仁四則1

「良く先王の道を挙げてこれを体すること(民を安んずる、民を養うの)は仁なればなり。」(『弁道』7

3. 仁の根元

仁とは、聖人が「天地の大徳=生」に則った大徳であり、また「生を好むの徳」というのである。

4. 仁の優位

聖人(先王)の場合:一つの大徳。――「君の徳はこれに(くわ)えるなし」

後世の君子場合:聖人の道を学んで、徳をなすための究極目標である(仁を至れる)。

聖人(先王)の道の場合:「先王の道は多端なり、ただ仁のみを以てこれを貫くべし。」(『弁道』23)「聖人の道は衆美(衆徳)ありといえども、みな仁を輔けてこれをなす所以なり」。(『弁名』仁四則1

5. 仁・性・徳・道の力関係

「惻隠……仁(義)、性に本づくことを明らかにするのみ。その実は、惻隠を以て仁を尽すに足らず。」(『弁道』1

「子思の本意、聖人、人の性に従って以て道を立つ。」(『弁道』1「子思、書を著して……先王、人の性に率いてこの道を作為すと謂うなり」(『弁道』4

「相親しみ相愛し相生じ相成し相輔け相養い相(ただ)し相救う者は、人の性然りと為す。」(『弁道』7

「人のは殊とりといえども……みな、相愛し相養い相輔け相成すの心、運用営為の才あることは一なり。」(『弁名』仁四則1

 「良く億万人を合して、その親愛生養の性を遂げしむる者は、先王の道(すなわち民を安んずる道)なり。」(『弁道』7

 「は先王に属し、は私に属す。ただに依りてしかるのち道は我と得て(がっ)すべし。」

6. 仁と愛

「仁以てこれを愛す」とは、ただその一端を言うのみ。いずくんぞ仁を尽すをえんや。つまり、愛で仁の全体を尽すことができない。

孔子が仁を「人を愛す」といったのは、民の父母となることをいったのである。

7. 仁を成す方――礼楽を習う(おこなう?)

礼楽は(ものい)わざれば、習って以て徳と成す。「『弁名』仁四則3

なぜ礼楽を習う(おこなう?)のは必要か?――「一星の火、原をやくに至り、一寸の苗、天に参するに至る」の喩え。

()きてこれを長じ、引きてこれを伸ばさしめば」――自ら、内物 ×

「風を以てしてこれを鼓し、雨露を以てしてこれを灌漑し」――外から、外物 ○

「礼楽」を以てこれを養い、然るのちに仁徳を成す

➔風と雨露を礼楽の譬えとして理解されれば、一星の火、一寸の苗に譬えられたこれ、何を指すか?

二. 担当箇所についての考察

1. 「もの」に対する言語の限界

一種の言語研究者としての徂徠は、われわれの使用している言語の限界性をある程度気付いたと思う。「道」、「徳」、「仁」などの「形なき」ものをめぐって論説は、ほぼ「ABである」のような描写的な解説パターンを断念した。これにかわって、これらの言葉(名)は創造物であり、また造られた時には、一定の効能が創造者から賦与されると想定し、その言葉の効能から言葉の内実を捉えようとした。

妥当でない一例を挙げれば、「水」に対する解釈は、『大辞林』には、「水素と酸素とから成る化合物。化学式 H2O。常温で無色透明・無味無臭の液体で物をよく溶かす……飲用のほか、溶解・洗浄・冷却・発電、あるいは、宗教上の儀礼など、人間の日常生活や産業などのあらゆる局面において利用される。」とある。句読点を含めて355字を使っても、恐らく「水」をまだ完全に描ききれていないといえよう。徂徠の場合には、「水は、一言で説明できないが、命を維持する飲用物である」というような解釈をするかもしれないと思われる。

2. 徂徠学説の起点と到着点

徂徠はこれまで儒学における既に存在していた孔子の権威に乗じて、孔子の学習対象としての『六経』を遡り、六経に載せられる先王の道の権威を見出してきた。そして、「作者之謂聖」という文句によって、作者ではない孔子の権威を引き下げ、作者であった先王の権威を上げて、遂に最も完璧な、超越的な存在として崇めた。これが自分の論説を展開して、進める根拠、力点とされた。

こう見れば、徂徠の学説においては、先王そして先王の道が最高の存在だという論証が不十分であり、しばしば一種の「信仰」のような存在として扱われたように思われる。

先王の道を民を安んずる礼楽刑政と要約した(定義した?)徂徠は、何を目指していたのか?

孔子以前の「実物」としての先王が制作した「礼楽刑政」はいずれも無くなっているが、これを復活させ、日本社会に活かそうとしていたのであろうか?あるいは、先王の「民を安んずる」願望を引き続いて、礼楽刑政を再制作しようとしていたのであろうか?あるいは、「人の内面性や道徳性を重視し過ぎて、礼楽刑政を害する恐れがあり、「体があるのに、用がない」」と彼が理解した朱子学(仁斎学)に対し批判を行い、自分の学説を打ち立てようとしていたのであろうか?

3. 徂徠学説における政治と道徳

 もし、子思、孟子が老氏の挑戦に応対するために、あるいは、時を救うために、性善説、道徳説を提出したという徂徠の指摘が成立するのであれば、老子の「聖人の道は偽である」という挑戦に対しては、徂徠はどのように答えられるのであろうか?

一般的に、孔子の思想では、礼楽(外在の制度)と仁(内在の道徳性)とは両方ともに存在していると認められる。[3]「民を安んずる」のは、儒学思想においては、ずっと大きな課題として存在している。従って、徂徠、朱子、仁斎の相違は、ある意味でただ方法論の相違だけであるといえよう。「民を安んずる」という「公徳」を実現するためには、人間の道徳性すなわち「私徳」を「公徳」に取り込む必要がなかったというような徂徠理解は、もちろん徂徠学説の要所を把握しうる。ところが、徂徠の学説は、本当に個人の道徳性と関わらないだろうか?

今度の担当の部分を読む限り、徂徠は「礼楽」を主眼とした「先王の道」の理解において、人々の道徳の果たせる役割を、最低程度に抑えようとしたが、完全に取り消すことができず、むしろ「先王の道」の不可欠の一部分として組み込んだではないかと思われる。(たとえば、相愛し相養い相輔け相成すの心についての論説)










[1] 『弁名』道十二則1、原文は「道者統名也。以有所由言之。蓋古先聖王所立焉……」である(P210)。「道なる者は統名なり。由る所あるを以てこれを言う。けだし古先聖王の立つる所にして……」というように読むと、少し変な感じがする。「以……言之、蓋……」とは、仮定的な設問と推測的な解答の文法の構造だと思われる。論点を明瞭に説明しようとした『弁道』と範疇・概念をはっきりととのえようとした『弁名』と比較すれば、言葉遣いは少し違うかもしれないと考えられる。

[2] 同じような表現は、『弁名』仁四則1にもある。「先王……礼楽を制作して、この道を立て、天下後世をして之に由らしめ……」

[3] 「儒家の教えとしては、『忠恕』の“仁”を中核に道徳の内面性の拡充を目指した曾子学派と、仁の表現経世である礼性を尊んでその社会性を重視した子游・子夏学派とに、二大別される。」戸川芳郎など:『儒教史』、山川出版社、1987年。pp3132

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