2011年6月24日金曜日
足尾鉱毒と人間群像 下山二郎 国書刊行会 平成6年3月
2. 政敵、足利の有力な商工業者木村半兵衛。
3. 第三回議会で矢継ぎ早に質問書を提出しその説明演説に立った。体重20貫(75キロ)、身長五尺七寸(171cm)、
4. 栃木県会では「栃鎮」なるニックネーム、国会では「田正」なるニックネーム。星亨――剛腹にして独断専行をほしいままにするので、「押し通る」の綽名をつけられていた。
5. 速記録が今も残されていて 「学士が来たり、或いは博士が来てそれを試験するが分からない。博士や学士が来て分からなければ、農商務大臣に分からぬのは当然の話であるから、未だ成績判然たるを得ずというのでしょう。なるほど、今日博士というに色々ありますが、なかには一山百文という博士もあるそうでございます(笑声)。なにしろ八円か九円取る者に分かって、百円も五十円も取る者には分からなくなる。農商務大臣になれば決して分からなくなる。それで何を言うかというと、何かほかに原因があるであろうと言う。農商務大臣になるとキセルにやにがたまるのは煙草ばかりではなかろう、ほかに原因があるであろう、渡良瀬川の鉱毒は他に原因があるであろうといってごまかす。いずれにせよ、地方税をもって奨励して植え付けた桑が枯れるのを政府が知らないということはない。勧業を主張し、水産を主張する政府が何十里という間の河の魚が一匹もなくなったということを知らないということはない。」
6. 「今日現に実施している鉱業条例第19条に公益に害があると認めたときには、農商務大臣はその営業を停止することを得るという明文が書いてある。今あるところの法律を行いさえすれば何もないのである。法律があり条例があって実施しないという政府がどこにありますか。諸君も最も恐れているところのものは外国条約である。条約改正中のこの居留地というものは、最も恐れているのは何でありますか。わが帝国に法律が行われないのである。しかしことさら下野の国群馬県の中なるこの新奇なる、古河市兵衛の輩が跋扈して、新たな居留地をこしらえ、法律ありといえども法律を行うことをしない。人民がいかに困窮に陥るとも農商務大臣はすこしも目に見えない。たまたま、愚論を吐いて曰く、古河の営業というものは如何に国家に有益のものであると。大きなお世話だ。如何に国家に有益なりといえども有益は有益、これを妨げるわけでない。比方は租税の義務を負担している。古河より先に住み通しておる人民が今日その土地におることができない。先祖伝来の田畑を耕すことができないという事実と比較できるものではないのだ。」――銅というものがいかに国家にとって有益なものではなっても、そのために人民の所有や居住の権利を奪うことは許されないという確固たる信念があった。先祖伝来の田畑を耕しそこに生活することは、農民の基本的な権利であり、そこに成立した村落は何人によっても犯されてはならないものだという信念でもある。
7. 正造、明治26年7月末から8月末にかけて渡良瀬川沿岸巡回の旅に出たのであった。7月半ば足利原田家へ嫁した妹リンが若くして死去した悲しみをいやす旅でもあった。外相陸奥が中心となって条約改正案をまとめていた。それは、外国人の内地雑居を認める代わりに、領事裁判権を廃止し関税率を改定しようとするものであった。
8. 明治28年
2011年6月23日木曜日
高岛
高島 元洋(タカシマ モトヒロ)日本儒教の特徴
1. 日本儒教を理解する枠組みについて(ⅰ) 丸山真男『日本政治思想史研究』。(ⅱ) 相良亨『近世の儒教思想』。
2. 問題設定の妥当性と検討すべき課題。
Ⅰ丸山の問題設定:時間的前後関係における転換から理解される日本儒教の特徴
Ⅱ相良の問題設定:空間的内外関係における転換から理解される日本儒教の特徴
3. ①〈比較思想的観点〉からの儒教理解と検討すべき課題。
⑴中国儒教(思想)―郡県制(社会構造)。a宗族(社会構造)における「孝」(思想)b科挙・士大夫(社会構造)における「聖人」「修己治人」「仁」(思想)
⑵日本儒教(思想)―封建制(社会構造)。a宗族がない社会(社会構造)における「礼」(思想)b科挙・士大夫がない社会(社会構造)における「人倫」(思想)
4.表1 A(もともとの)オリジナル[原型]な文化 B(あたらしくうまれた)独創的[オリジナル]な文化 Cオリジナルな文化を独創的な文化に変形・洗練させる力。
5. ⅰ丸山真男(1914-1996)『日本政治思想史研究』
ここでは日本の近代化を問題にして、A朱子学の「自然的秩序の論理」からB徂徠学の「作為の論理」への転換を論じる。「自然的秩序の論理」とは、天人合一観のように、天と人、自然法則と道徳法則とが対応・連続するとする考え方である。「作為の論理」とは、道(制度)は自然にあるものではなく、聖人の作為をまってはじめて成立するとする考え方である。丸山は、この作為する聖人像に独自の解釈をくわえ、近代につながる「主体的人格」を読み込む。丸山は、近世儒学の展開のなかに「近代意識の成熟を準備する前提条件」を探ろうとした。近世の思想はむろん近代意識そのものではないが、その「前提条件」である。この「前提条件」があって封建的イデオロギーは内部から解体する。
6. ⅱ相良亨(1921-2000)『近世の儒教思想』
ここでは儒教という外来思想にたいして日本の伝統的な倫理観の質を問題にして、A朱子学の「敬中心の儒学」からB仁斎学の「誠中心の儒学」への展開を論じる。「敬」は人倫関係における自と他との「差別性」につながる徳性であり、武士的な「自敬衿持の精神」
にむすびつく。一方、「誠」は自と他との「合一性」につながる徳性であり、武士的精神にたいする町人の立場にむすびついた。相良は、さらに「誠」の思想を支える日本人の伝統的倫理観を問題にする。「誠」にあらわれる「主観的心情の純粋性を重視する傾向」は、同時に「倫理の客観的・法則的把握」において未成熟なものがあるのではないかと危惧する。
7. 日本社会の近代化ということでいえば、近世と近代は断絶することなく連続している。その端的な事例として、明治維新(1868)の後ほとんどときをおかず、やつぎばやに近代化政策が実施され近代産業が起こったということがある。たとえば電信開通(1869)、工部省設置(1870)、郵便制度実施・散髪脱刀令(1871)、学制頒布・鉄道開通・富岡製糸工場[官営模範工場](1872)等々である。このように事業の急速な展開が可能であったことは、近世においてすでに近代化にむけての蓄積があったと考えるべきなのである。
8. 経済構造は、米遣い経済(米中心の経済)と貨幣経済(市場経済)の二重構造でなりたっており、したがって封建社会(身分制度)も、米遣い経済に武士・農民(「士農」)がくみこまれ、市場経済に町人・職人(「工商」)がかかわるというダブル・スタンダードのもとで実施された。そして近代が選択したことは、この二重構造を解体して市場経済に一元化することであった。おおきな方向転換ではあるが、断絶ではない。すでに活溌であった市場経済がこれによってさらに拡大するのである。
9. 解釈のあやまりの一例。丸山は、「作為の論理」の聖人像において、無から制度を作る近代の「主体的人格」を読み込む。しかしこの解釈は、徂徠において聖人は、無からではなく「窮理」により「天地」に通暁し「道」を制作するとあるので成立しない(『弁名』)。
10. しかし、人が「活物」であるためには道(人工物)が存在しなくてはならないのである。
高岛
高島 元洋(タカシマ モトヒロ)日本儒教の特徴
1. 日本儒教を理解する枠組みについて(ⅰ) 丸山真男『日本政治思想史研究』。(ⅱ) 相良亨『近世の儒教思想』。
2. 問題設定の妥当性と検討すべき課題。
Ⅰ丸山の問題設定:時間的前後関係における転換から理解される日本儒教の特徴
Ⅱ相良の問題設定:空間的内外関係における転換から理解される日本儒教の特徴
3. ①〈比較思想的観点〉からの儒教理解と検討すべき課題。
⑴中国儒教(思想)―郡県制(社会構造)。a宗族(社会構造)における「孝」(思想)b科挙・士大夫(社会構造)における「聖人」「修己治人」「仁」(思想)
⑵日本儒教(思想)―封建制(社会構造)。a宗族がない社会(社会構造)における「礼」(思想)b科挙・士大夫がない社会(社会構造)における「人倫」(思想)
4.表1 A(もともとの)オリジナル[原型]な文化 B(あたらしくうまれた)独創的[オリジナル]な文化 Cオリジナルな文化を独創的な文化に変形・洗練させる力。
5. ⅰ丸山真男(1914-1996)『日本政治思想史研究』
ここでは日本の近代化を問題にして、A朱子学の「自然的秩序の論理」からB徂徠学の「作為の論理」への転換を論じる。「自然的秩序の論理」とは、天人合一観のように、天と人、自然法則と道徳法則とが対応・連続するとする考え方である。「作為の論理」とは、道(制度)は自然にあるものではなく、聖人の作為をまってはじめて成立するとする考え方である。丸山は、この作為する聖人像に独自の解釈をくわえ、近代につながる「主体的人格」を読み込む。丸山は、近世儒学の展開のなかに「近代意識の成熟を準備する前提条件」を探ろうとした。近世の思想はむろん近代意識そのものではないが、その「前提条件」である。この「前提条件」があって封建的イデオロギーは内部から解体する。
6. ⅱ相良亨(1921-2000)『近世の儒教思想』
ここでは儒教という外来思想にたいして日本の伝統的な倫理観の質を問題にして、A朱子学の「敬中心の儒学」からB仁斎学の「誠中心の儒学」への展開を論じる。「敬」は人倫関係における自と他との「差別性」につながる徳性であり、武士的な「自敬衿持の精神」
にむすびつく。一方、「誠」は自と他との「合一性」につながる徳性であり、武士的精神にたいする町人の立場にむすびついた。相良は、さらに「誠」の思想を支える日本人の伝統的倫理観を問題にする。「誠」にあらわれる「主観的心情の純粋性を重視する傾向」は、同時に「倫理の客観的・法則的把握」において未成熟なものがあるのではないかと危惧する。
7. 日本社会の近代化ということでいえば、近世と近代は断絶することなく連続している。その端的な事例として、明治維新(1868)の後ほとんどときをおかず、やつぎばやに近代化政策が実施され近代産業が起こったということがある。たとえば電信開通(1869)、工部省設置(1870)、郵便制度実施・散髪脱刀令(1871)、学制頒布・鉄道開通・富岡製糸工場[官営模範工場](1872)等々である。このように事業の急速な展開が可能であったことは、近世においてすでに近代化にむけての蓄積があったと考えるべきなのである。
8. 経済構造は、米遣い経済(米中心の経済)と貨幣経済(市場経済)の二重構造でなりたっており、したがって封建社会(身分制度)も、米遣い経済に武士・農民(「士農」)がくみこまれ、市場経済に町人・職人(「工商」)がかかわるというダブル・スタンダードのもとで実施された。そして近代が選択したことは、この二重構造を解体して市場経済に一元化することであった。おおきな方向転換ではあるが、断絶ではない。すでに活溌であった市場経済がこれによってさらに拡大するのである。
9. 解釈のあやまりの一例。丸山は、「作為の論理」の聖人像において、無から制度を作る近代の「主体的人格」を読み込む。しかしこの解釈は、徂徠において聖人は、無からではなく「窮理」により「天地」に通暁し「道」を制作するとあるので成立しない(『弁名』)。
10. しかし、人が「活物」であるためには道(人工物)が存在しなくてはならないのである。
2011年6月21日火曜日
日本近代化の世界史的位置 芝原拓自
岩波 1981年
1 野呂 榮太郎(のろ えいたろう、1900年4月30日 - 1934年2月19日)『日本資本主義発達史』
『日本資本主義現段階の諸矛盾』――Aアメリカに経済、貿易関係で決定的依存。B中国抗日、帝国主義の争覇 日本の利
権が脅かされていた。
2 羽仁五郎 「東洋における近代資本主義は、東洋に置ける近代以前なるもの、アジア的生産様式を、最後まで解決し得ない。けだし、近代資本主義自身が帝国主義の段階に入るや、帝国主義の支配は、東洋に置ける遅れた社会関係、近代以前的なるものによる支配の維持を通じて、自己を維持する物となっていたからである。」
3 日本の「近代化」論にたいするわが国歴史学界の検討——
金原左門『「日本近代化」論の歴史像』(中央大学出版部、1968年)
和田春樹「近代化論」『講座日本史』9、東京大学出版会、1971年。
松本三之介「伝統と近代の問題」(岩波講座『日本歴史』24、1977年)
第二編 第三章
1 まず検討を要するのは、対外従属と危機の渦中において、しかも短期間に旧封建支配体制の解体と国家統一=資本主義化の諸条件を産み、かつそれを制約した基礎的な国内の歴史的前提としての、幕末維新段階にいたるまでの農民的商品生産の発展および農民層の分化の特徴の問題。
2 多肥、多労働に依存する棉、菜種、甘蔗などの「箱庭」的経営形態は、商品生産であるとともにまた零細「百姓」のそれに照応した形態であって、「富農」的経営拡大=プルジョア的両極分解を可能にも有利にもする農具改良=労働生産性の増大が欠如しているのが、その最大の特徴の一つであった。かかる条件では、大経営は相対的に小経営のそれを単純に累加する人手を要し、封建貢租のみならず、肥料、労賃の増大がそのまま直接の重圧となって、経営の拡大を阻害するであろう。