1、陸奥宗光(1844~1897)
先祖は伊達騒動で知られる仙台藩の伊達兵部で、その子孫は徳川御三家のひとつ紀州藩につかえた。陸奥は勝海舟を師とし坂本竜馬とともに学び、海援隊に入って活躍した。
大政奉還後、兵庫県や神奈川県の知事を勤めたが、明治10年の西郷隆盛らが離反した西南戦争の時陸奥も政府転覆計画に加担したかどで、明治15年まで6年間東北の監獄に収監された。 その間、陸奥身をきずかって衣食等 の差し入れをしたのが古河市兵衛であった。
1883年(明治16年)出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
この費用は、一万一千円を要したとされるが、そのうち二千五百円は市兵衛が負担している。
明治維新後、陸奥は新政府に登用され、駐米大使、農商務相、外相など歴任し、次男は子供のいなかった古河市兵衛の養子に迎えられた。
2、渋沢栄一(1840~1931)
足尾銅山は明治12年(1879)頃、古河、渋沢、相馬の3者の出資で開発された。
栄一は武蔵榛沢の郷士の子で尊皇攘夷運動に加わり、その後一橋家に仕え慶応3年、徳秋昭武に随行して渡欧し西洋の新知識を学び、明治維新となって帰国し日本で始めての民間銀行、第一国立銀行を設立し、古河市兵衛は大株主となる。
3、原 敬 (1856-1912) (HARA TAKASHI)
南部藩家老の家の次男として生まれ、藩校を出て海軍兵学校を受験するが失敗して明治9年に司法省学校に入学したが、退学して一時新聞記者になるが井上馨の世話で官界入りし、そこで陸奥宗光に認められて政界の道が開けて古河と接触持つにことになる。
陸奥宗光外務大臣の時に外務次官を勤め、明治30年官界を去って大阪毎日新聞社長になり、33年に立憲政友会の創立に参加し、35年に衆議院議員となた。 大正2年に政友会第3代の総裁、大正7年には総理大臣となる。 爵位を持たず衆議院に議席を有する首相の初めての出現は平民宰相と歓迎された。 しかし大正10年東京駅で暴漢に刺殺された。
原敬35歳の時に陸奥農商大臣の秘書官となり,その関係から足尾との出会いが始まった。 明治38年4月、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子になり、新会社古河鉱業会社の社長に就任するにあたり、陸 奥の長男.広告に頼まれて原啓は副社長として、病弱な社長を助けて2年間足尾を見ることになった。
4、武田久吉(1884~1972)
武田久吉(1884~1972)アーネスト サトウには日本人妻、武田兼がいた。 そのニ男一女の次男として1884年(明治17年)に生まれ府立一中、東京外語を出て父の母国英国に留学し、帰国後京大、九大、北大などで植物学を講じ、植物学の権威で日本山岳会の創立者の一人。子供の頃から父サトウに連れられて山に出かけ登山や植物に関心をもつようになった。 久吉は「私の登山史は、日光の山から始まったと言ってもよい」と編著「尾瀬と日光」の中で書き、足尾にも度々訪れている。 しかし足尾の煙毒で山が破壊されたことを嘆き足尾の山に入らなくなった言われいます。
森林植物学を専攻した久吉は戦後昭和35年に日本自然保護協会を設立するなどエコロジストの草分けとして知られている。 昭和46年88歳の著作「明治の山旅」のはしがきの中で「わが国国内凡百の山岳は、幾多の遊戯登山大衆の脚下に踏みにじられて、かてて加えて、観光公害の犠牲になり、昔日には到る所で見られた、けがされない自然美は、日々に稀薄となって、今やそれはなかなか求めべくもないと言ったならば、誇張であろうか。と企業のみならず人間についても自然破壊に警告をしている。
5、勝海舟
勝海舟(KATU KAISHU) 近代日本国をつくった幕末維新時代のパイオニアの中で、幕末敗者側の要人にもかかわらず時代を超えた国際感覚をもち、明治維新の時45歳だった海舟は明治政府では海軍大輔の要職につき、明治8年に官を辞し以降25年間悠々自適の生活送った。 伯爵貴族院議員に互選されるがアウトサイダーとして日清戦争に反対の立場をとり、日本の近代化、洋風化については消極的であった。
海舟が近代化の中心地であった足尾をおとずれた記録は残っていない。 隣町の日光には一度きている。 海舟は日光東照宮の官軍による攻撃を回避させ、破壊から守った功労者の一人であった。
日清戦争が終わった翌年の明治29年、日光足尾地方に大暴風がおそい渡良瀬川が氾濫して両毛平野に被害がでた。戦時下でおさまっていた足尾銅山の鉱毒問題が表面化し、田中正造は足尾銅山鉱業停止同盟会を組織する。 その後明治30年3月、農商務大臣榎本武揚は渡良瀬現地を視察するが、足尾銅山の創業停止命令をだしたあと大臣職を辞任する。 この時の3月27日の毎日新聞には次のような内容の海舟の発言が載っている。 「文明の大仕掛けで山を堀りながら他の仕掛けこれに伴ってないことは間違っている直ちに停止の外はない」
海舟は外務大臣にもなった陸奥とは意見が合わず対立する立場をとった。
6、 榎本武揚(ENOMOTO TAKEAKI)
榎本武揚(1836~1908) 明治維新の時榎本は33歳であった。 江戸を明け渡し幕臣達は駿府70万石で食っていかざる得なっかた。 榎本は広大な蝦夷地の荒野に幕臣達の生活の場を求めて新政府に嘆願書を出したが認められず、五稜郭で戦って敗れた。 しかし明治政府は榎本の力量を評価し、海軍卿(かいぐんきょう),逓信相、分相,外相、農商務相などの地位で遇した。
幕臣の子として生まれ長崎海軍伝習所で学び、その後6年間オランダに留学し七ケ国語を理解した外国通科学者であった。 明治27年伊藤内閣では農商務大臣となり、この間日清戦争の戦時内閣のおいて、その重責を果たした。 基幹産業がなかった時代に「鉄は工業の母,護国の基礎」という言葉で鉄産業の強化を進め、彼の主張もあって釜石製鉄所や八幡製鉄所ができる。
その時期に足尾銅山の鉱毒事件がおこる。 明治30年2月26日第10議会において田中正造は質問書を提出し、足尾銅山の鉱害防止を怠ってきた農商務省の怠慢を批判した。
大臣であった榎本は同年3月23日現地を視察する。 明治政府の官僚として、はじめて榎本が鉱害現地を訪れたのである。 榎本は一日の鉱害現地視察から帰り、翌日足尾銅山鉱毒事件調査委員会の設置と足尾銅山の操業停止命令を出し,鉱毒事件の責任をとって農務商大臣を辞任した。 榎本62歳の時で以降官職にはついていない。
榎本の辞任は足尾鉱毒問題を解決したのではなく一つの問題提起であり、近代日本の殖産体制下の急務と技術水準のギャップ、さらには鉱毒の実態を彼自身が一番良く知っていたのかもしれない。 当時の技術水準で汚泥や煙灰の処理が不可能なることを理解できる化学知識を持っている閣僚は他にいなかったであろう。
榎本の下した命令は調査会で検討されて操業停止前に除害工事を施工するべきものとして明治30年5月27日37項目にわたる第3次予防工事命令書が古河足尾銅山に下った。
それから百余年経過し、技術的な解決方法がされたが銅山の鉱脈も底をつき足尾銅山は昭和48年閉山した。
7、坂口 祐<sakaguchi tasuku> 足尾銅山をめぐる人々
坂口 祐(1878~1969) 明治11年秋田県大湯で会津藩士中村富造の次男生まれた。 家が貧しく近くの銅山で働いていたが、18歳の時上京、職をもとめて歩いたが儘ならず、足尾銅山の坂田飯場で働いていたが、20歳で徴兵検査を受け日露戦争では弘前の騎兵隊の分隊長として従軍した。 帰還後、関東学院中等部に編入し明治42年第一高等学校(一高)に32歳で入学、東大に進み哲学科宗学を専攻、大正3年主席で卒業した、その時彼は37歳でした。 明治39年、足尾銅山の飯場の娘、坂田千恵子と結婚し姓を中村から坂田とする。
大学時代にクリスチャンとなった坂田は大正8年キリスト教を建学の精神とする関東学院を創設し昭和24年には新制関東学院大学を設立した。
8、志賀直道(SHIGA NAOMICHI)
小説の神様といわれた志賀直哉の祖父 で相馬藩6万石の奉行。 廃藩後、明治に於いては相馬家の家令として財政維持につとめ、古河市兵衛、渋沢栄一と共に足尾銅山の再開発に尽力しその利益で主家の財政挽回を図った。
URL
http://nikko-spot.com/blog/cat37/
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