2010年4月26日月曜日

渡边浩 《宋学与日本社会》 笔记一

一,日本儒者的存在形态
1,儒学=“游艺”,政治影响微乎其微。
「徳川時代に入ってから、儒教への関心は尻上がりに高まり、遊芸の一つとしてにしろう四書の素読を習う者も増えていった。儒学を業とする者もまだまだ少数であった。無論、宋学が服従の調達、秩序の維持に重要な役割を果たしていたなどとは考えられない。」
2,儒者料簡(りょうけん)=儒者にありがちな、理屈は通っているようだが実行すれば有害な思いつきと言うほどの意味である。
二,德川前期的经济大成长。
享保六年 1721年 武士などを除いて、2600万
慶長五年 1600年          1200万~1000万 

三,儒者存在的依据。

1,家康:武家诸法度。林家的存在根据——「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」--佛教与儒学的互相制衡。
2,儒者与医者。“儒者同士の経書解釈の争いも、医者の治療法の是非の争い同様専門業界内部のことだから、「御威光」や治安に関わらない限り、幕府の関知する所ではない。”
3,“官学”的意义——将军家御用。侍候将军的医生叫做官医。
四,德川儒者的宋学批判。
1,与德川政治无涉。
2, 儒教与日本社会的距离。禅宗教学との拮抗の内に生まれ出たあの高遠な形而上学が、二本差しの侍、算盤片手の町人の生に特に相応しい思想だったのであろうか、忠孝の教えが適合的だとしても、それならば特殊に朱子学、宋学である必要はあるまい。むしろ宋学には、この体制に適合し難い面もすくないことは後述の通りである。----标准问题,多少算同质?朝鲜王朝与中国亦不同质。中国历朝亦不同质。
3,大名“鉢植え化” 「帰国の御暇を賜る」——类似于中国的唐虞三代。
五, 将军权利的正统性根据。非来自天皇,而是“御威光”。将軍権力の正統性根拠は天皇に在ったなどと簡単にはいえない。権力と権威や、「実務的部分」と「尊厳的部分」の分業でもない。将軍自身の「御威光」は凄まじいものであった。

六, 日本非“士农工商”,而为“武士,百姓,町人”。非身份差别,而是职业区分。

七,儒学在日本的受容。彼等は、日本の「士」に即して「道」を説かねばならなかった。儒者達の著した様々の武士訓、武士道論、士道論の類はその直接的な現れである。それらは、武士の生と儒学とを架橋する企てとして、その両軸の間に種種の偏倚をもって散在している。」----- “场域”的理论。思想市场的需求,决定了思想的供给。“徐々に広まった宋学を、独特の「場」に置くことになった。思想は次第にある程度政治を変えていったが、同時に往往変えられた。その場合、大別して二つの方向があろう。現実の経世済民には実際上重点を置かず、武士として、民としての個々の修業論・心構え論に集中していくのが一つである。儒学本囊括经世济民,亦含修业论和心性论,不过有所侧重。
八,战国时代——中国儒教的民本主义 VS 日本的德治主义。

1,戦国時代の意識は、天に託された民に仁政を施すことを君の存在理由と見なす儒教的な民本主義には遠い。徳治主義、民への憐れみ。
2,战国时代的“天道观”。与战国之后,德川时代的宋学的道的概念产生了呼应。那么,战国时代的这种天道观源于何处?佛教思想?
九,武士的主从关系的基本性格。没有明确的契约关系,而是亲子性质的关系。

十,赤穂浪士の行為に対して、儒者の多くは、多少とも儒者的君臣観と武士的主従意識の共存や架橋や同一視が図られていたのである。

十一, 修己治人——修己/治人。非联续的。修己不单是手段,本身就是目的。

十二,幕末,武士所占人口比例6%~7%。清末,官员比例0.007~0.0093%。实际上不任官的“生员”大概占0.29%。

十三,日本儒学的显著倾向,对朱子学的“性”的不相信,以及对主观地臆断把“理”的哲学的正当化傲慢的反感。但是,“宋学批判は、当時の日本の体制的思想への批判ではない。少なくともそれは一面において、既成の日本社会の側からする外来思想への批判であろう。”宋学批判,不是对当时日本的体制的思想的批判,而是站在既成的日本社会一侧,对外来思想的批判。

十四,日本“家业国家”——机构。“ 自分の「家」の持続と繁栄は、武士や上層の町人百姓ばかりでなく、次第にほとんどの日本人の抱くようになった人生最大の希望であり義務であり、その断絶は典型的な不孝であった。“イエとは、個々人の集合であるよりは、個々人を超越し、個々人をいわば折々の質料とする形式的永続的な機構である。”家,与其说是个人的集合,倒不如说是超越个人,而是把各个人作为随时地资料的形式上的永存的机构。

十五, 中国的家族,滋賀秀三『中国家族法の原理』(創文社、1967)。
中国の、厳格に父系でたどって同一の祖先を有すると観念される宗族としての家(広義)、及びその一部分をなす、家計を共にする生活共同体としての家(狭義)は、いずれも具体的な個人の集団である。個々人を超越して「存在」する機構という性格を有しない。家自体が一個の企業体であり、その成員として個々の家族員がいるという性質を持たない。「家元」もあり得ない。「家業」の語はあるが、それは通常家産の意である。父の死後兄弟で分割することが完全に可能である。最的清晰表现,禁止同姓婚和异性养子。

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