『国民』形成における統合と隔離 日本経済評論社 2002年原田勝正 (かつまさ)
第九章 足尾鉱毒 渡良瀬川沿岸被害農民のたたかいと明治国家
−−−−幕臣閣僚 榎本武揚の去就
福島達夫
はじめに、
1. 渡良瀬川沿岸農民の運動は、江戸時代からの百姓一揆、農民騒擾の終焉。
2. 足尾鉱毒問題で映し出された近代日本国家には、現代の日本政府の原型があるが、その政府を拒否し、離脱した人たちがいた。
3. 救現堂の中に、正造を顕彰し、奉賛する人々の名前が列記された木牌があり、その人名の中に榎本武揚の名がある。
4. その木牌には、古河の足尾銅山を擁護する政府にたいして、鉱毒被害住民の運動に支援し同情するもう一つの爵位の天皇制体制が表されている。
5. 近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月1日)
ア、 鉱毒事件に関しては、年譜では、1897年8月「足尾銅山鉱毒事件に関し仲裁を受託す故ありて中道之を辞す」。直前の5月下旬「野州足利学校を参観」
イ、 海外漫遊は、入閣勧誘からの逃避、忌避、入閣拒否であったであろう。
ウ、 田中正造の直訴、日記「還行十二時、途上田中正造御馬車に就き直訴せんとして捕らえられる。稀有の大椿事なり」
6. 勝海舟
ア、 『海舟座談』、『氷川清話』
7. 谷 干城(たに たてき、天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)神岡浪子 編『資料 近代日本の公害』、新人物往来社、1971年、室田忠七『鉱毒事件日記』。
8. 福沢は、1880年の『時事証言』を境に、官民調和論、脱亜論、日清戦争賛美論、大企業擁護論へと転換した。言論人として、福沢は大きな社会問題、政治問題となっていた渡良瀬川鉱毒問題について、大臣の現地視察を批判し、『足尾鉱毒事件の処分』を書き、鉱毒排除命令書で、この問題は終わり、過去の被害は裁判によって決すべしと論じた。『福沢諭吉全集』、第15巻。松浦玲 「勝海舟と足尾鉱毒事件」、『田中正造と足尾鉱毒事件研究』3。
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