2010年5月20日木曜日

小堀桂一郎 『日本における理性の伝統』 中公叢書

1、 1547 サヴイエルは、マラッカ聖母教会で、鹿児島武士の池端弥次郎と面会した。−−可否看作,日本与西洋思想第一次面面的交涉。以及后来的山口辩论

2、教士日本人的价之中,多用“理性”。正因是有理性,因而信仰天主教是可能的。理性与天主教之的必然系??「理性的な国民でありますから」−−「キリスト信者になること」を期待。

3、書簡85、サヴィエルはキリスト教の「もっともよい」所は何かと質問し、弥次郎は「告解と聖体拝領」だといった。

4、P198 「サヴィエルの用いている razón(スペイン語)、razão(ボルトガル語)は〜〜ラテン語のratioに由来し〜〜「理性」とも「道理」とも訳し得る。

5、現代語では「『理性』が人間に内在する知的能力の一種(悟性、知性の如く)〜〜『道理』は外在的超越的理法」であり

6、P199道理と理性、サヴィエルの日本人評価と日本人の自己認識との間にはやはり食い違いがあった。

7P202日本語のカトリックの教理書の中で、「道理」の用例−−外在的超越的な「理」=ことわりであって、知性、悟性、徳性等に並ぶ人間の精神的能力の一種としての理性を意味するものではない。

8razónとしての理性は、道元の行った「思慮分別」、多胡辰敬(たこときたか)の「算用」である。 VS 聖教では~~人間の内面に於いて主の掟(道理)に感応する器官として創造主から分与されてある理性の具備は当然自明の要請である。 道理と理性とを同じrazónの一語で把握し、その二つに区別を設けぬという言語文化にいきているサヴィエルは、日本人が己の奉ずる「道理」に捧げている尊重の念を見て、彼等をキリスト教的文脈に於いての「理性」豊かな民であると見た。 P208

9、日本,内在的“理性”和外在的“道理”加以区分,而当教士,受天主教哲学影响,不加以区分,因为这理性是受于天主的。因而作者西方人有「理の誇り」而日本不存在。

10、「キリスト教文化圏」VS「仏教文化圏」−−精神構造の違い−−異文化間の摩擦−−形而上学の次元における「東西の対話」。

11西对话--山口の討論。

  この討論について、色んな論文が出てきました。

  时间15514月末~秋。

记录:フロイス(Luis Frois 1532~~1597)の『日本史』,日本方面无。

内容:デウスの概念。仏僧はデウスを大日如来として理解。創造論。霊魂論。

  小沢万記 「山口の討論」−−キリスト教側の記載の「信憑性」を問題にした。禅僧の「空」の概念は「その徹底性と論理性において〜〜西洋哲学の伝統とも充分に拮抗しうるものであった。」

12、山口さんの意見。

西周 「尚白箚記」、全集1巻、1960年、P165172

 然て理と云ふ辞、歐言にては的訳を見ず。其故にや、本邦従来の儒家は『西人未曾知理』と[此語山陽先生の書後題跋に見ゆと覚ゆ、勿論当時は欧の学未開へざる故なり]云へりと見ゆれど、是理を知らざるには非らず、指す所異なる。蓋し欧州近来の習にては、理を二つに言い分けたり。例すれば英語の。。。。。。「レーズン」は汎用にて道理と訳し、局用にて理性と訳す。此理性とは人性に具わる是非弁別の本原にて、所謂人の以て万物に霊たる所以を指し、汎用の道理とは見解に為よ、決定にも為よ、説にも為よ、弁解にも為よ執り以て其地を為す者を指すなり。斯く字義を広く用えたるときは、観察上にも渋る者から、自ら天地の理にも及ぶ事有れども、人心にて是と定めたる者ならでは指さず。故に此理性道理と云ふ字義の内には、天理天道など云う意は含まぬ事と知る可し。

13、「自由」をめぐって、東洋の自由=「ほしきまま」 VS 「あるべき様」 西洋の自由、解放といった消極的意味。鈴木大拙による「自由論」。仏教、禅の(高位の次元)自由 VS 西洋(下位) freedom liberty

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