2010年7月15日木曜日

近藤成一 鎌倉時代の王権と祭祀

1、鎌倉時代、社会の基本的な単位としての荘園は、朝廷と幕府によって二重的に支配されていた。具体的に言えば、朝廷が領家を派遣して管理を行ったのに対しては、地頭が幕府から任命されたことも有っていた。
2、地頭と領家の対立ずっとあったので、おおざっぱいえば、荘園を分けてそれぞれ治理すうように対立の問題の解決を求めました。
3、天皇と上皇の関係。象徴的な支配者としての天皇、実権を握っていた上皇。
4、天皇のやらなければならない行事。
5、天皇は、天皇である限り出家できない、そして、神事を行う場合は、仏事と僧尼を忌避する。また、王法仏法相依論に基づく仏教王権の主宰者としての上皇、法皇。
6、黒田 俊雄(くろだ としお、 1926121 - 1993126日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。文学博士。『黒田俊雄著作集』全8巻(法藏館)がある。
7、権門体制(けんもんたいせい)とは、歴史学者黒田俊雄が提唱した日本の中世国家体制に関する学説。岩波講座『日本歴史 中世2』(1963年)で「中世の国家と天皇」というタイトルで発表した。

この「権門体制論」は戦前の歴史学者平泉澄の研究を継承したものとする、歴史学者今谷明の指摘もある。

それまでの中世史観では、中世国家は旧体制である天皇を代表とする公家権力と宗教権力、新興の武家権力が三つ巴(ともえ)の対立抗争を行っている社会であるとの見方が大勢を占めていた。

それに対し黒田は、文献に現れる権門勢家という言葉を用語化して権門体制論という学説を提唱した。

権門勢家とは簡単に言い表すと権威があり、勢威もある政治的、経済的に有力な勢力というところだろう。これら公家権門(執政)、宗教権門(護持)、武家権門(守護)はそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的関係があり、一種の分業に近い形で権力を行使したのが中世国家であるというのが権門体制論である。国家の様々な機能は各権門の家産制的支配体系に委ねられ、これら三者を統合する形式として、官位など公的な地位を天皇が付与し、三者の調整役ともなる。この意味で天皇は権門の知行体系の頂点に位する封建国家の国王なのだとする。荘園制が事実上崩壊した応仁の乱を契機に権門体制は崩壊し、織豊政権による天下統一までいわゆる国家権力は消滅したというのが黒田の主張である。

批判

 このように、中世日本を天皇を筆頭とする単一の国家と見る権門体制論に対し、佐藤進一を筆頭とする東国国家論からの有力な批判がある。この説は、鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の中世国家と見なし、西日本を中心とする王朝国家と鎌倉幕府とは、相互規定的関係をもって、それぞれの道を切り開いたとする。両国家は、特に北条時頼が親王将軍を迎えてからは、西日本からの相互不干渉・自立を目指したというのである。

一方で権門体制論の内部においても、国王の地位にあったのは天皇でなく治天の君であるとする説[1]、鎌倉時代前期までとする説[2]などが出されている。このように、中世を通じた国家モデルとしての権門体制論は、極めて有力な説ではあるものの、必ずしも定説になっているとは言い難い現状にある。

8、顕密体制論

9、神道与佛教的地位问题。昭和时期,国家神道论登场,此时,神道高于佛教。但是,在此前,镰仓时期,僧侣的社会地位要高于神官。(不太高明的说明:以小制大。)

10,中国的皇帝的身份,通过祭天得以确认。与此类似,天皇的神圣性通过大尝祭得到确实,这种观点,最开始是由折口提出来的(天皇的灵魂独立于继承者的肉体,通过祭祀,使得灵魂进入肉体的论说),近藤老师说此为捏造。

11,关于天皇是否主宰祭祀的争论。第一,如一些佛教的祭祀活动如“最勝講”(さいしょうこう),天皇仅仅以“施主(せしゅ)”的身份参与。但是在另一方面,对一个祭祀在形式上是否真正主宰,并不是关键,关键是施主的身份,实际上决定了对祭祀的控制(??)镰仓时代,主持佛教祭祀的多为法皇。

12,中国,国家祭祀仅为一种理想的模式。

13,日本各个神社的分裂,各个神社有各自的氏族(作为祖先崇拜的神道),其对神社的控制权是天皇无法剥夺的。如果某神社有大的祭祀活动,天皇可以派使节参与慰问。

14,天皇生活之中的神道与佛教。神道是天皇一族的祖先祭祀,佛教作为世间更为一般的宗教存在。

15,日本的孔子祭祀与中国的孔子祭祀,日本的将军祭祀孔子,与中国皇帝祭祀孔子有细微的差别,根源于其身份合法性的不足。



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