2010年4月28日水曜日

書目一

資本主義形成期の秩序意識 / 鹿野政直

文明開化と民衆意識 / ひろた・まさき

体系日本史叢書、思想史〈1〉/石田 一良

論集日本歴史、自由民権 / 坂根義久

日本の社会文化史 : 総合講座 近代化の展開 / 宇野重昭責任編集

海からみた歴史と伝統 : 遣唐使・倭寇・儒教 / 小島毅

日中文化交流史叢書 / 中西進, 周一良編 思想 / 源了圓, 厳紹璗編

論集幕藩体制史 /藤野保編 封建思想と教学

百姓一揆の時代 / 青木美智男

近世知識人社会の研究 / 芳賀登

近世義民年表 / 保坂智

百姓一揆と義民の研究 / 保坂智

江戸知識人の世界認識 / 井田清子

近世庶民生活史料未刊日記集成

近世思想論 / 本郷隆盛, 深谷克己

近世国家と明治維新 / 津田秀夫編

江户时代中国典籍流播日本之研究 / (日)大庭修著 ; 戚印平, 王勇, 王宝平译

江戸時代における中国文化受容の研究 / 大庭脩著

江戸の思考空間 / タイモン・スクリーチ著 ; 村山和裕訳

東西の思想闘争 / 小堀桂一郎編

異文化を生きた人々 / 平川祐弘編

近世村落生活文化史序説 : 上野国原之郷村の研究 / 高橋敏

文人・勤番藩士の生活と心情 / 高牧實

百姓の主張 : 訴訟と和解の江戸時代 / 渡辺尚志

豪農・村落共同体と地域社会 : 近世から近代へ / 渡辺尚志

幕末文化の研究 / 林屋辰三郎

明治の理想 ; 開国の精神 / 紀田順一郎

章炳麟と明治思潮 : もう一つの近代 / 小林武

もう一つの近代 : 側面からみた幕末明治 / M.ウィリアム・スティール

国家という難題 : 東湖と鴎外の大塩事件 / 武藤功

民衆と豪農 : 幕末明治の村落社会 / 高橋敏

幕末における「王」と「覇者」 / 吉田昌彦

アジアにおける文明の対抗 : 攘夷論と守旧論に関する日本、朝鮮、中国の比較研究 / 藤田雄二

日本の近代化と民衆思想 / 安丸良夫

第1篇 民衆思想の展開(日本の近代化と民衆思想/民衆道徳とイデオロギー編成/「世直し」の論理の系譜―丸山教を中心に)
第2篇 民衆闘争の思想(民衆蜂起の世界像―百姓一揆の思想史的意味その1/民衆蜂起の意識過程―百姓一揆の思想史的意味その2)

外文論文。

THE CONFUCIAN IDEOLOGY AND THE MODERNIZATION OF JAPAN
-as lllustrated in the Meiji Edition of the Denshun Nencji~ Gyo~'ji
J. R. MCEWAN

http://www.ide.go.jp/English/Publish/Periodicals/De/pdf/65_04_10.pdf

THE PROBLEM OF RELIGION AND MODERNIZATION IN JAPAN
By Dr. Hideo Kishimoto

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/publications/jjrs/pdf/CRJ-26.PDF

TRADITIONAL VALUES AND THE MODERNIZATION OF JAPAN
by Robert Bellah

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/publications/jjrs/pdf/CRJ-88.PDF

Confucianism and modernization

http://www.springerlink.com/content/p226568v34v40592/

日本近代化論の現在 Some recent theories on the modernization of Japan
黒崎 征佑  帝京平成大学文化情報学科

http://ci.nii.ac.jp/naid/110001044646/en/

The Social Response of Buddhists to the Modernization of Japan

http://www.jstor.org/pss/30233599

Confucianism and Christianity in Meiji Japan: The Case of Kozaki
CONFUCIANISM. AND CHRISTIANITY. 351

http://www.jstor.org/pss/25212338

No Place of GRACE by T.J.Jackson Lears

No Place of GRACE
Antimodernism and The Transformation of American Culture, 1880--1920, The University of Chicago Press,1981.

Preface to the Paperback Edition.

1,I also suggested that an antimodern outlook might help us to define liberation in larger than individual terms by preserving structures of meaning outside the self.But my primary purpose was that of most historians: I wanted to reconstruct and understand the experience of people under particular historical circumstances--in this case, the experience of educated Americans grappling with the spiritual and psychological turmoil around the turn of the century.

2,Late Victorian period. Textbooks told of an optimistic, energetic society about to reach the full vigor of industrial maturity; to me that tale failed to account for the myriads of thoughtful Americans who ,by the 1880s, had begun to question the very basis of industrial capitalist society: not merely the unjust distribution of wealth and power but the modern ethic of instrumental rationality that desanctified the outer world of nature and the inner world of the self,reducing both to manipulable objects.

3,Antimodern dissenters recoiled from this ethic and groped for alternatives in medieval, Oriental, and other "primitive" cultures.

2010年4月27日火曜日

保谷 『魯人再掠蝦夷一件』を読むために

一、世界史のなかの「北方紛争」

1. 再掠(さいりゃく) 蝦夷(えぞ)
2. 木村和男(かずお)『北太平洋の「発見」−−毛皮交易とアメリカ太平洋岸の分割−−』
何故ラクスマンやレザノフが日本に来たのか?−−北太平洋支配の問題から考える−−「列強による北太平洋争奪戦の直接の動機はラッコ(海濑)毛皮の獲得にあった」
3. ベーリングの探検と元文の黒船(1739年)。
4. 布连斯奇条约(Treaty of Kiakhta),俄方称恰克图条约。中俄边境的皮毛(黑貂 クロテン)贸易。
6. 露米会社ーーレザノフーー北米の版図。
7. トルデシリャス条約 (托尔德西里亚斯条约)
8. 1789年,ヌートカ湾協定——英国は北太平洋に利権を確保、現在の北米カナダ(東西横断)につながる。

二、「魯人再掠蝦夷一件」
1. 大目付(おおめつけ、老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った)、中川忠英(ただてる 1751〜1830)
2. 文化4年6月、蝦夷地へ出張し事後処理と情報収集にあたる。
3. 1877年、中村子孫より外務省へ寄贈。

三 ゴロヴニンがみた日本「日本幽囚記」

 日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書きのできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない。日本の法律はめったに変わらないが、その要点はおおきな板に書いて、町々村々の広場や人目にたつ場所に掲示されるのである。
。。。。だから庶民にとってはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。
などなど

ゴロヴニン 著  井上満 訳 『日本幽囚記』(岩波文庫、1943年)

19世紀初頭、日露間の紛争の中で2年余にわたって囚われの身となったゴロヴニン(1776〜1833)の手記である。

引用部分は、第三編「日本国および日本人論」の1節であり、日本国民の教育水準の高さや勤勉な国民性、潜在能力について述べている。こうした日本人観察は他の観察記事にもみられることだが、ゴロヴニンは戦争に明け暮れる西洋文明をよしとせず、日本の鎖国政策を支持して「この正当で正直な国民をからかう様なことをしてはならぬ」と主張している点に特徴がある。この見地から、もし日本が「人類の絶滅に役立つ(戦争のこと)。。。。ヨーロッパ式の文明の方法」を採用した場合には、いずれ周辺諸国や「ヨーロッパ人にとって危険な国民」になると考えたのであり、この予測は実際当っていたともいえる。この点で忘れてならないのは、ゴロヴニンが日本を本文にも登場する平兵卒が闊歩する社会だと認識した点である。
西洋では下級身分であるのに、日本では教養もあって社会的尊敬をうける世襲身分、これはとりもなおさず“武士身分の支配”に注目したことなのである。

2010年4月26日月曜日

九条の会。

1、勝海舟を軸に日本の近現代史を考える  山口義夫/著 石山久男/著 宮地正人/著 梅田欽治/著 浅川保/著 鵜沢義行/著 吉岡吉典/著 下町人間・天狗講九条の会/企画・編集   2009年2月

2、二十一世紀の日本と田中正造・勝海舟  下町人間総合研究所  2000年5月

3、日本のアジア侵略と憲法九条―田中正造、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰を見直す (単行本)  安川 寿之輔  2006年5月

4、東アジア共同体構想と日本国憲法/田中正造のアジア認識  三浦一夫/飯田進下町人間・天狗講九条の会/下町人間総合研究所  2008年02月発売 単行


5、其他。URL http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?publisher_list=0&author_list=0&publisher=%89%BA%92%AC%90l%8A%D4%91%8D%8D%87%8C%A4%8B%86%8F%8A&list_kensu=20

这些书大多都和「九条の会」 有些关联。

足尾銅山をめぐる人々

1、陸奥宗光(1844~1897)

先祖は伊達騒動で知られる仙台藩の伊達兵部で、その子孫は徳川御三家のひとつ紀州藩につかえた。陸奥は勝海舟を師とし坂本竜馬とともに学び、海援隊に入って活躍した。

大政奉還後、兵庫県や神奈川県の知事を勤めたが、明治10年の西郷隆盛らが離反した西南戦争の時陸奥も政府転覆計画に加担したかどで、明治15年まで6年間東北の監獄に収監された。 その間、陸奥身をきずかって衣食等 の差し入れをしたのが古河市兵衛であった。

1883年(明治16年)出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
この費用は、一万一千円を要したとされるが、そのうち二千五百円は市兵衛が負担している。

明治維新後、陸奥は新政府に登用され、駐米大使、農商務相、外相など歴任し、次男は子供のいなかった古河市兵衛の養子に迎えられた。



2、渋沢栄一(1840~1931)

足尾銅山は明治12年(1879)頃、古河、渋沢、相馬の3者の出資で開発された。

栄一は武蔵榛沢の郷士の子で尊皇攘夷運動に加わり、その後一橋家に仕え慶応3年、徳秋昭武に随行して渡欧し西洋の新知識を学び、明治維新となって帰国し日本で始めての民間銀行、第一国立銀行を設立し、古河市兵衛は大株主となる。

3、原 敬 (1856-1912) (HARA TAKASHI)

南部藩家老の家の次男として生まれ、藩校を出て海軍兵学校を受験するが失敗して明治9年に司法省学校に入学したが、退学して一時新聞記者になるが井上馨の世話で官界入りし、そこで陸奥宗光に認められて政界の道が開けて古河と接触持つにことになる。

陸奥宗光外務大臣の時に外務次官を勤め、明治30年官界を去って大阪毎日新聞社長になり、33年に立憲政友会の創立に参加し、35年に衆議院議員となた。 大正2年に政友会第3代の総裁、大正7年には総理大臣となる。 爵位を持たず衆議院に議席を有する首相の初めての出現は平民宰相と歓迎された。 しかし大正10年東京駅で暴漢に刺殺された。

原敬35歳の時に陸奥農商大臣の秘書官となり,その関係から足尾との出会いが始まった。 明治38年4月、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子になり、新会社古河鉱業会社の社長に就任するにあたり、陸 奥の長男.広告に頼まれて原啓は副社長として、病弱な社長を助けて2年間足尾を見ることになった。

4、武田久吉(1884~1972) 

武田久吉(1884~1972)アーネスト サトウには日本人妻、武田兼がいた。 そのニ男一女の次男として1884年(明治17年)に生まれ府立一中、東京外語を出て父の母国英国に留学し、帰国後京大、九大、北大などで植物学を講じ、植物学の権威で日本山岳会の創立者の一人。子供の頃から父サトウに連れられて山に出かけ登山や植物に関心をもつようになった。 久吉は「私の登山史は、日光の山から始まったと言ってもよい」と編著「尾瀬と日光」の中で書き、足尾にも度々訪れている。 しかし足尾の煙毒で山が破壊されたことを嘆き足尾の山に入らなくなった言われいます。
森林植物学を専攻した久吉は戦後昭和35年に日本自然保護協会を設立するなどエコロジストの草分けとして知られている。 昭和46年88歳の著作「明治の山旅」のはしがきの中で「わが国国内凡百の山岳は、幾多の遊戯登山大衆の脚下に踏みにじられて、かてて加えて、観光公害の犠牲になり、昔日には到る所で見られた、けがされない自然美は、日々に稀薄となって、今やそれはなかなか求めべくもないと言ったならば、誇張であろうか。と企業のみならず人間についても自然破壊に警告をしている。


5、勝海舟

勝海舟(KATU KAISHU) 近代日本国をつくった幕末維新時代のパイオニアの中で、幕末敗者側の要人にもかかわらず時代を超えた国際感覚をもち、明治維新の時45歳だった海舟は明治政府では海軍大輔の要職につき、明治8年に官を辞し以降25年間悠々自適の生活送った。 伯爵貴族院議員に互選されるがアウトサイダーとして日清戦争に反対の立場をとり、日本の近代化、洋風化については消極的であった。

 海舟が近代化の中心地であった足尾をおとずれた記録は残っていない。 隣町の日光には一度きている。 海舟は日光東照宮の官軍による攻撃を回避させ、破壊から守った功労者の一人であった。

 日清戦争が終わった翌年の明治29年、日光足尾地方に大暴風がおそい渡良瀬川が氾濫して両毛平野に被害がでた。戦時下でおさまっていた足尾銅山の鉱毒問題が表面化し、田中正造は足尾銅山鉱業停止同盟会を組織する。 その後明治30年3月、農商務大臣榎本武揚は渡良瀬現地を視察するが、足尾銅山の創業停止命令をだしたあと大臣職を辞任する。 この時の3月27日の毎日新聞には次のような内容の海舟の発言が載っている。 「文明の大仕掛けで山を堀りながら他の仕掛けこれに伴ってないことは間違っている直ちに停止の外はない」

海舟は外務大臣にもなった陸奥とは意見が合わず対立する立場をとった。

6、 榎本武揚(ENOMOTO TAKEAKI) 

榎本武揚(1836~1908) 明治維新の時榎本は33歳であった。 江戸を明け渡し幕臣達は駿府70万石で食っていかざる得なっかた。 榎本は広大な蝦夷地の荒野に幕臣達の生活の場を求めて新政府に嘆願書を出したが認められず、五稜郭で戦って敗れた。 しかし明治政府は榎本の力量を評価し、海軍卿(かいぐんきょう),逓信相、分相,外相、農商務相などの地位で遇した。

幕臣の子として生まれ長崎海軍伝習所で学び、その後6年間オランダに留学し七ケ国語を理解した外国通科学者であった。 明治27年伊藤内閣では農商務大臣となり、この間日清戦争の戦時内閣のおいて、その重責を果たした。 基幹産業がなかった時代に「鉄は工業の母,護国の基礎」という言葉で鉄産業の強化を進め、彼の主張もあって釜石製鉄所や八幡製鉄所ができる。

その時期に足尾銅山の鉱毒事件がおこる。 明治30年2月26日第10議会において田中正造は質問書を提出し、足尾銅山の鉱害防止を怠ってきた農商務省の怠慢を批判した。

大臣であった榎本は同年3月23日現地を視察する。 明治政府の官僚として、はじめて榎本が鉱害現地を訪れたのである。 榎本は一日の鉱害現地視察から帰り、翌日足尾銅山鉱毒事件調査委員会の設置と足尾銅山の操業停止命令を出し,鉱毒事件の責任をとって農務商大臣を辞任した。 榎本62歳の時で以降官職にはついていない。

榎本の辞任は足尾鉱毒問題を解決したのではなく一つの問題提起であり、近代日本の殖産体制下の急務と技術水準のギャップ、さらには鉱毒の実態を彼自身が一番良く知っていたのかもしれない。 当時の技術水準で汚泥や煙灰の処理が不可能なることを理解できる化学知識を持っている閣僚は他にいなかったであろう。

榎本の下した命令は調査会で検討されて操業停止前に除害工事を施工するべきものとして明治30年5月27日37項目にわたる第3次予防工事命令書が古河足尾銅山に下った。

それから百余年経過し、技術的な解決方法がされたが銅山の鉱脈も底をつき足尾銅山は昭和48年閉山した。



7、坂口 祐<sakaguchi tasuku> 足尾銅山をめぐる人々

 坂口 祐(1878~1969) 明治11年秋田県大湯で会津藩士中村富造の次男生まれた。 家が貧しく近くの銅山で働いていたが、18歳の時上京、職をもとめて歩いたが儘ならず、足尾銅山の坂田飯場で働いていたが、20歳で徴兵検査を受け日露戦争では弘前の騎兵隊の分隊長として従軍した。 帰還後、関東学院中等部に編入し明治42年第一高等学校(一高)に32歳で入学、東大に進み哲学科宗学を専攻、大正3年主席で卒業した、その時彼は37歳でした。 明治39年、足尾銅山の飯場の娘、坂田千恵子と結婚し姓を中村から坂田とする。

 大学時代にクリスチャンとなった坂田は大正8年キリスト教を建学の精神とする関東学院を創設し昭和24年には新制関東学院大学を設立した。

8、志賀直道(SHIGA NAOMICHI) 
小説の神様といわれた志賀直哉の祖父 で相馬藩6万石の奉行。 廃藩後、明治に於いては相馬家の家令として財政維持につとめ、古河市兵衛、渋沢栄一と共に足尾銅山の再開発に尽力しその利益で主家の財政挽回を図った。

URL

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田中正造について

田中正造の関係者

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田中正造と憲法九条

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日本のアジア侵略と憲法九条―田中正造、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰を見直す (単行本)

安川 寿之輔 (著)

孟子 尽心篇

孟子曰:“尽其心者,知其性也。知其性,则知天矣。”


1,关于尽心的解释


赵注(?~201):人之有心,为精气主,思虑可否,然后行之。犹人法天(人法天乃老子思想,或许当时是大家共通的思想,只是到后来被我们误解为老庄独门),天之执持网维,以正二十八舍者北辰也。论语曰,北辰居其所,而众星拱之。心者,人之北辰也。苟存其心养其性所以事天也,故以尽心为篇题。


心--精气--人之北辰。

人法天。

尽心:存心+养性>>>事天。



孙奭(962~1033)前篇章首论告子之言性。此篇章首以论尽心。盖以性情有主于心。故次之以尽心也言尽己之心与天道通,是道之极者。(赵注)云人之有心,为精气主。思虑可否,然后行之,犹人法天者,盖以性之得于天,心之生于性,天莫之为而所以命人者性也。性则湛然自得,所以为主者,心也。则人之心为精气主,思虑可否,然后行,由人法天也。云天之执持维网以正二十八舍者,北辰也者。



心——主性情。

尽心:尽己之心与天道通——道之极。

人法天。Why? 天>>性>>心。But,天,莫之为而为者(孟子,万章上。自然而然的力量)——性(不受外力影响)自得—— So, 心为主。(这个地方的逻辑似乎不太通顺,why,赵注中的人法天的天,其概念似乎与孙疏的天不同)。



2,“尽其心者,知其性也。知其性,则知天矣。”



赵注:有仁义礼智之端,以制之。惟心为正,人能尽极其心,以思行善,则可谓知其性矣。知其性则知天道之贵善者也。



朱注:心者,人之神明,所以具众理而应万事者也。性则心之所具之理,而天又理之所从出者也。人有是心,莫非全体,然不穷理,则有所蔽而无以尽乎此心之量。故能极其心之全体而无不尽者,必其能穷夫理而无不知也。既知其理,则其所从出,亦不外是矣。以大学之序言之,知性则物格之谓,尽心则知至之谓也。

3,夭寿不贰,修身以俟之,所以立命也。

赵注:贰,二也。仁人之行,一度而已。虽见前人或夭或寿,终无二心改易其道。夭若颜渊,寿若邵公,皆归之命。修正其身,以待天命,此所以立命之本。

Point1:仁,道的独立性,对生命(长短)占有的优先性。
Point2:以仁道修身,以待天命——立命之本。“天命”是外在的,不受人的力量的干预存在。——消极性格??“知天命,尽人事”的态度?

孙疏:正义曰此章言尽心竭性,足以承天,夭寿祸福,秉心不违,立命之道,惟是为珍贵也。孟子言人能尽极其心以思之者,是能知其性也,知其性则知天道矣。知存其心,养育其性,此所以能承事其天者也。以其天之赋性,而性者,人所以得于天也然。而心者,又生于性,性则湛然自得,而心者又得以主之也。盖仁义礼智,根于心,是性本固有,而为天所赋也,尽恻隐,羞恶,恭敬,是非之心,则是知仁义礼智之性。知吾性固有此者,则知天实赋之者也。如存此恻隐,羞恶,恭敬,是非之心,以长育仁义礼智之性,是所以事天者也。是性,即天也。故存心养性,是为事天矣。又言,人之于命,虽有或夭或寿,但操存其心而不仁也。既天寿不二,而修身以待其在天者如何,耳如是,所以为能立命之本也。以其夭寿,皆定于未形有分之初,亦此而不二也,不可徼求之矣,但修其在我,以待之是为立命也,如此于夭寿而二其心以废其所以修其在我者,则非所以立命者也。商书云,我生,不有命,在天,是其意也。

Point1:天——性——心——仁义礼智——So,修身(存心养性)=事(动词,行为)天。
Point2:操存其心而不仁也。??

菅野先生ゼミ1

大般涅槃経(だいはつねはん)巻36 迦葉菩薩品第12之4。


1. 如来的佛性有二,一是有,二是无。有无随自意。-- 连续到后来的佛性乃为“空”的观点。

2. 一阐提有无佛性呢? いっせんだい 也是“有无随自意”。

3. “一切众生皆有佛性” いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう−−−如来(にょらい)の「随自意語」−−-此为出世第一义谛

4. “或有佛性一阐提有善根人无,或有佛性善根人有,一阐提无,或有佛性二人俱有,或有佛性二人惧无。”——若解此四句者,不应难言一阐提人定有佛性,定无佛性。

5. “若言众生皆有佛性。是名如来随自意语。”——如果说,众生皆有佛性,那么就会把如来的“随自意”这句话限定下来了,在某种意义上是对如来话语的轻视。(不可下定义)——So,感叹:众生云何一向作解

6. 恒河七众生。

常没—大鱼—不信之心。——不相信“一些众生悉有佛性”——心不能生善法,虽有无量诸佛出世不闻不见。


暂出还没——大鱼,受恶业,故身重,处浅,暂见光明。因光故出重故归还。——信,戒,闻,施,智,五不具足但还不只自己“不具足”。


得住——坻弥鱼,身处浅水,乐见光明,出已住。


观四方——错鱼,为求食故,遍观四方,是故观方。


遍观已行——错鱼,遥见余物,谓是可食,急行趣之。


行已复住——趣已既得食,便停止。


到彼岸——水陆俱行——龟。水为世间,陆地为出世。

7. 七众生,虽然名称有异,但是不能离开水,不能离开“佛性”的水。——佛性就是不能离开水。

8. 「七衆生の、若しは善法も、若しは不善法も、若しは方便道も、若しは解脱道もーーー悉く是れ仏性なり、是れを如来の随自意語と名づく」

9. 佛法之中,“信”与“智”的动力关系。两个方面都是必须的。且,佛性并非「物的な」存在、而只是在每一时刻,每一空间所持有的方向性。

10.具足与不具足的辩证关系。一件事物本身就包含有对其本身的否定。

11.闻不足具。智不足具。自言具足--不得闻不具足法。

12.如来既解脱,解脱既如来。。。。如来=解脱=慈悲喜舍=涅槃。佛性=如来=一切不共之法=解脱=涅槃。这些认识,“于是义中不能分别” so 智不足具。所谓一切不共之法,指什么呢?不能够以逻辑,归纳,演绎等工具理性所能收拢,整理的世界万象。

13 .闻法的表现:A 善能分别义。B 呵责一切有。C 供养无量佛。D 受世乐不放佚。 E 亲近善友听正法。F 乐见光明修习正道。


森下之贵 “无形之物”的实在感——日本人生死感的现状。

尾藤正英 《日本文化的历史》

弥生时代以后为“古代国家”,中世后期以后为“日本近代国家”,明治以后为“西方=近代的国家”。而且认为在“日本的近代国家”中形成了所谓“平等·职务·行为·公共(共同的连续性)”等近代的事物。“日本的近代”这种表记太过繁琐,姑且换作“传统”。尾藤认为:“传统”虽然因明治开国以后的西方=近代化而有所歪曲,但(逐渐呈现出一些崩溃的征兆)直到今天却依然得以维持。

伊藤 整 「近代日本人の発想の諸形式」

1,从明治到大正中期,从坪内逍遥,二叶亭四迷,岛崎藤村,白桦派,夏目漱石,森欧外,德川时代以前的“传统的”要素与西方教育的“近代的”要素融合为一体,形成了所谓了社会常识。NHK的意识调查(《现代日本人的意识构造·第六版》)也反映了这一点,所谓传统实际上是近代的传统。

2,日本人认识方法的背景中存在“东方无的认识”,即存在于宇宙中的渺小,遥远的自觉。肯定这种自觉的典型事例是志贺直哉意志调和的宇宙观。志贺那种以无的意识,凭借直感好恶进行判断的生存方式,被人们认为是不与日本社会秩序发生冲突感的调和的人类观而被人们信服,且被近代知识阶级认为是非常健全的思考方式。可以说这是形式化了的佛教,老庄无的认识和进化论出现后的自然科学认识的结合。它支撑着日本知识分子的“无信仰性”,没有丝毫混乱。

加藤周一·莱修·里夫顿《日本人的死生观上·下》

加藤:近代日本人对死的态度,对生的态度,反映了“以集团志向性为中心的现实主义”。这是大多数日本人行动的准则框架,是对德川时代世俗化文化的继承。

保谷 《幕末日本と対外戦争の危機ーー1864年下関戦争の舞台裏》

1,1853年,Perry来航--1858年,日美修好通商条约缔结--开国--国内攘夷运动高涨--1864年,四国(英、仏、蘭、米)联合舰队攻击下关。

2,軍事対比:列强,1850年代步枪化,60年代后装化。日本,几乎没有引入步枪。

3,文久年间(1861~3),尊攘运动高涨。奉勅攘夷「幕府自体も朝廷に攘夷を約束、政治力の回復を狙う。」

4,1862年生麦事件。--幕府赔偿,同时要求锁港,外国人追放ーーwhy,幕府为了怀柔攘夷派??

5,幕府避战,理由人心不统一(人心不折り合い),和亲+锁港(横滨,江户的近所)。

6,幕府VS 自由贸易帝国主义。 为了拥护并扩张自由贸易体制,不惜采用武力。

7,1863年12月,英国对日作战的觉书。区分出,大名,江户政府和帝(ミカド)。

8,老中が米蘭両国代表に、貿易ではなく和親(Amity)こそが条約の目的であり、貿易は全く和親に従属し、貿易が無制限であるかまたは大に発展することは友好関係と一致しないと言う。

9,“为了阻止战争而发动战争”是不明智的。

10,交渉条約 VS 敗戦条約

11,下关战争,西欧人看来是“文明的胜利”,后来,这种对文明的胜利的认识发生了流转。甲午战,日本认为是文明的胜利。

近代日本人的生死观 石川公彌子

石川 公彌子( いしかわくみこ)

近代日本人的生死观

1,本居宣長 (モトオリ ノリナガ) 1730〜1801

 平田篤胤             1776〜1843 

 柳田国男             1875〜1962

 折口信夫             1887〜1953

2,本居宣長的显幽分任论

古事记中[让国(国譲り)]的典故。天照大神等生活在高天原上的天津神,认为苇原中国应该由天神,特别是天照大神的子孙来统治,国津神以建造宫殿为交换条件,让出了苇原中国。

本居宣长(《古事记传》10:120)(《玉匣》8:320,1)。

A,世界由“显事”(所有人事--天皇作为天照大神的子孙负责)和“幽事”(治乱吉凶,福祸--大国主神负责)构成。

B,显事——表现为人的作为,但根本上出于“神的御心”——是“神的行为”。

C,显相对于幽占据优势。



《答问录》1:544 《古事记传》11:388

所有人死后都要赴“肮脏陷恶”的“黄泉国”,但根据地位的“尊卑”,心性的“智愚”,“强弱”有部分人死后能将灵魂留在世上——世人要以“智”来充满心灵——确立日常伦理的契机。



3、平田篤胤的显幽分离论

A,显=显国=眼睛看得到的现世。幽=幽世=在“显国”的某个地方,与显国连接在一起。——人死后,永远地存在于“这片国土上”。

B,人死后,死骸回归泥土,灵魂赴幽冥,按照大国主神的命令保护子孙,有缘人,给他们带来幸运。

C,大国主神,主宰“灵魂”还主宰“众神”——“幽冥”高于“显世”,“大国主神”高于“诸神”。

D,大国主神执掌“最后的审判”,根据幽冥界的灵魂的善恶给予现世中报应。

E,现世乃是“寓之世”,幽世才是“本之世”。



4,柳田国男

A,关心点:战争和民间信仰。

B,《幽冥谈》——幽冥论=幽冥教“由于有害于公益或传道困难等原因而无法取得公众承认的宗教。”——幽冥教的衰退=宗教的衰退。对平田学说的赞赏。

C,现世=尘世。幽冥=隔世。后者可观察前者,反之不可。隔世比尘世更有力量——我们不能作恶。现世和幽冥之间可以往来。——柳田对平田的继承(不包括最后审判)。

D,『先祖の話』——日本人死后的观念“灵魂永远留在这片国土上(清静之处,比如说山上)”,“显幽可轻易交通(一念之力,盂兰盆)”,“生者的愿望死后会实现”,“很多人认为为了子孙不仅要制定计划,还要多次降生以继续相同的事业。”

E,可以看到柳田学说 消除生者的悔恨的方向性——这是追悼战殁者的关键之处。

F,人死后33年成神,再经一段岁月,祖灵会舍弃个性而融为一体——为家族,国家的公益而活动。

G,无人祭祀的无缘佛。要使之成为有源佛——没有血缘的人继承家名。

H,“对于我们来说能够怀抱祖先一代代轮回,可以为同一个国家效劳的信念是一件幸福的事情”

I,柳田国男的镇魂论,不是将战殁者祭祀视为国家都道府层面上的多重祭祀,而是想利用家庭祭祀使之一元化。



5,折口信夫

A,折口的责任;“没有得到安慰的灵魂依然充满整个国家”,探索将未完成灵导向完成灵。《民族史观中的他界概念》

B,折口认为明治神道的解释一边倒向近代神学,认为这种对亡灵的处置中存在“无法达到的地方”。

C,灵魂完成的必要条件:年龄的充实,不同于“死于非命,意外死亡,受到诅咒死亡”的完满的死亡。此外,都是未完成灵。人世间的人数与抵达阴间的灵魂数是不一样的。

D,神灵作为盂兰盆节的精灵或正月的年神等客人来访问尘世。

E,通过举行象征苦行的仪式就能够使年龄不足的死者成为完成灵。念佛舞。

F,死于非命的未完成灵,没有补救办法,战死者是“被国家强迫去死”——折口的太平洋战争观。

G,折口否定柳田的观点,认为灵魂与祖灵处于被切断的状态才是真正纯粹,正统的神道观念“神道以前的神道”。——人类以及死者的平等。

H,重视对“家”的祭祀是柳田,与之相对,试图开创以“个人”为单位或以拥有相同价值观及志向的人们共同组成的“亲密圈”为单位进行祭祀的是折口。

I,折口提出要使神道普遍宗教化。确立赎罪观念,对仅仅寻求“宽恕神”的姿态进行严厉的批评。惩罚之神,裁判之神存在。

J,柳田,主张通过受到各家庭祖灵的保佑生者以道德的生存方式为自己的志向。而折口主张通过考虑到死后大国主神的审判,生者应该以道德的生活方式为志向。

渡边浩 《宋学与日本社会》 笔记一

一,日本儒者的存在形态
1,儒学=“游艺”,政治影响微乎其微。
「徳川時代に入ってから、儒教への関心は尻上がりに高まり、遊芸の一つとしてにしろう四書の素読を習う者も増えていった。儒学を業とする者もまだまだ少数であった。無論、宋学が服従の調達、秩序の維持に重要な役割を果たしていたなどとは考えられない。」
2,儒者料簡(りょうけん)=儒者にありがちな、理屈は通っているようだが実行すれば有害な思いつきと言うほどの意味である。
二,德川前期的经济大成长。
享保六年 1721年 武士などを除いて、2600万
慶長五年 1600年          1200万~1000万 

三,儒者存在的依据。

1,家康:武家诸法度。林家的存在根据——「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」--佛教与儒学的互相制衡。
2,儒者与医者。“儒者同士の経書解釈の争いも、医者の治療法の是非の争い同様専門業界内部のことだから、「御威光」や治安に関わらない限り、幕府の関知する所ではない。”
3,“官学”的意义——将军家御用。侍候将军的医生叫做官医。
四,德川儒者的宋学批判。
1,与德川政治无涉。
2, 儒教与日本社会的距离。禅宗教学との拮抗の内に生まれ出たあの高遠な形而上学が、二本差しの侍、算盤片手の町人の生に特に相応しい思想だったのであろうか、忠孝の教えが適合的だとしても、それならば特殊に朱子学、宋学である必要はあるまい。むしろ宋学には、この体制に適合し難い面もすくないことは後述の通りである。----标准问题,多少算同质?朝鲜王朝与中国亦不同质。中国历朝亦不同质。
3,大名“鉢植え化” 「帰国の御暇を賜る」——类似于中国的唐虞三代。
五, 将军权利的正统性根据。非来自天皇,而是“御威光”。将軍権力の正統性根拠は天皇に在ったなどと簡単にはいえない。権力と権威や、「実務的部分」と「尊厳的部分」の分業でもない。将軍自身の「御威光」は凄まじいものであった。

六, 日本非“士农工商”,而为“武士,百姓,町人”。非身份差别,而是职业区分。

七,儒学在日本的受容。彼等は、日本の「士」に即して「道」を説かねばならなかった。儒者達の著した様々の武士訓、武士道論、士道論の類はその直接的な現れである。それらは、武士の生と儒学とを架橋する企てとして、その両軸の間に種種の偏倚をもって散在している。」----- “场域”的理论。思想市场的需求,决定了思想的供给。“徐々に広まった宋学を、独特の「場」に置くことになった。思想は次第にある程度政治を変えていったが、同時に往往変えられた。その場合、大別して二つの方向があろう。現実の経世済民には実際上重点を置かず、武士として、民としての個々の修業論・心構え論に集中していくのが一つである。儒学本囊括经世济民,亦含修业论和心性论,不过有所侧重。
八,战国时代——中国儒教的民本主义 VS 日本的德治主义。

1,戦国時代の意識は、天に託された民に仁政を施すことを君の存在理由と見なす儒教的な民本主義には遠い。徳治主義、民への憐れみ。
2,战国时代的“天道观”。与战国之后,德川时代的宋学的道的概念产生了呼应。那么,战国时代的这种天道观源于何处?佛教思想?
九,武士的主从关系的基本性格。没有明确的契约关系,而是亲子性质的关系。

十,赤穂浪士の行為に対して、儒者の多くは、多少とも儒者的君臣観と武士的主従意識の共存や架橋や同一視が図られていたのである。

十一, 修己治人——修己/治人。非联续的。修己不单是手段,本身就是目的。

十二,幕末,武士所占人口比例6%~7%。清末,官员比例0.007~0.0093%。实际上不任官的“生员”大概占0.29%。

十三,日本儒学的显著倾向,对朱子学的“性”的不相信,以及对主观地臆断把“理”的哲学的正当化傲慢的反感。但是,“宋学批判は、当時の日本の体制的思想への批判ではない。少なくともそれは一面において、既成の日本社会の側からする外来思想への批判であろう。”宋学批判,不是对当时日本的体制的思想的批判,而是站在既成的日本社会一侧,对外来思想的批判。

十四,日本“家业国家”——机构。“ 自分の「家」の持続と繁栄は、武士や上層の町人百姓ばかりでなく、次第にほとんどの日本人の抱くようになった人生最大の希望であり義務であり、その断絶は典型的な不孝であった。“イエとは、個々人の集合であるよりは、個々人を超越し、個々人をいわば折々の質料とする形式的永続的な機構である。”家,与其说是个人的集合,倒不如说是超越个人,而是把各个人作为随时地资料的形式上的永存的机构。

十五, 中国的家族,滋賀秀三『中国家族法の原理』(創文社、1967)。
中国の、厳格に父系でたどって同一の祖先を有すると観念される宗族としての家(広義)、及びその一部分をなす、家計を共にする生活共同体としての家(狭義)は、いずれも具体的な個人の集団である。個々人を超越して「存在」する機構という性格を有しない。家自体が一個の企業体であり、その成員として個々の家族員がいるという性質を持たない。「家元」もあり得ない。「家業」の語はあるが、それは通常家産の意である。父の死後兄弟で分割することが完全に可能である。最的清晰表现,禁止同姓婚和异性养子。

Note:渡边浩谈日本思想史研究 (东方早报)

东方早报——渡边浩谈日本思想史研究

丸山的敌人——狂傲的民族主义。丸山的憧憬——近代西洋的价值:自由,民主,平等。

《日本政治思想史》的动机:“日本过去也存在近代的因素,来说明日本的未来大有希望。”

日本的经济与社会表层发生巨变,而思想,思考模式没有变化——没有自立的思想(前近代特征)。从古至今的统一的因素,“古层”“执拗低音”。

现代,日本思想史研究的坐标轴——《日本政治思想史》。

历史学家有些类似于摄影家,相机的长焦,广角,超广角决定了所描述的风景的不同。这根源于于历史学研究之中的比较方法和经验主义方法。

语言就是历史学家的镜片。渡边:英语,德语,韩语,法语,荷兰语,汉语。

人终究是人,有共性,或绝对价值。但,历史不一定进步。更甚之,非单线的。“我觉得人类的历史可以向任何一个方向发展,而且不一定是好的方向。”

中国=文,日本=武(质)。“质胜文则野,文胜质则史,文质彬彬,然后君子”(雍也)

汉字文化圈——筷子文化圈。

渡边浩谈日本思想史研究 (东方早报)

渡边浩先生表示,研究日本思想如仅以西方作参照太过简单,应该和中国朝鲜等邻国文化作比较。他认为,尽管人类分享着一些基本的价值观,自由、平等、民主、人权等很重要,但现实的西方未必就是人类社会进步的方向,人类历史可以向任何方向发展,而且不一定是好的方向。

丸山真男先生的《日本政治思想史研究》已经在中国翻译出版了,您能否介绍一下他的基本立场?他在日本思想史研究领域的影响如何?

渡边浩:丸山真男先生在日本思想史研究中的影响非常大,可以说二战以后对于日本思想史的所有研究都是在他的影响之下展开的。当然,有人同意他的看法,也有人反对他的看法,但是,即使是反对他的人,也全都受到他的影响,包括我自己。

我想先谈谈丸山真男先生的基本立场和基本看法。他思想上的敌人始终只有一个,那就是1930至1940年代弥漫日本社会的狂傲的民族主义。这种思想宣扬日本的特殊性和优越性,使日本成为一个军国主义的国家,以至于发动了侵略中国的战争。对于这样的日本思想、日本社会、日本政治,他十分讨厌,甚至可以说是憎恨。那时候丸山先生还很年轻,也是这种极端民族主义的受害者。他在高中的时候,就已经是一名很优秀的学生,有一次去参加一位左派人士的公开演讲,结果被警察抓起来,拘留了好几天。从那个时候开始,他常常感到日本政府警戒森严,觉得自己的自由受到了约束,所以,战争以后他最关心的是怎样才能不退回到过去那个时代,这也是他基本的研究动机。

丸山先生觉得,日本应该有个人自立的思想,应该树立对自由、平等、民主的信仰,建设一个符合这些价值的新日本。对他来说,理想的社会是近代西洋,当然并不是近代西洋本身,而是近代西洋的价值,他觉得这就是人类进步的方向,日本不应该退回到过去的那种情况。

丸山真男先生一方面分析军国主义时代日本的政治、社会思想,另一方面也想证明日本以前也有近代的萌芽,《日本政治思想史研究》这本书就是在这样的背景下写成的。这是寄托了他的希望的书,他想通过证明日本过去也存在近代的因素,来说明日本的未来大有希望。二战以后,日本的经济快速发展,在经济和社会方面看样子似乎已经进入了近代。可是,他觉得日本人的思想、思考的模式并没有什么变化,还是和过去的时代差不多一样,没有真正的自立的思想。以前他觉得,思想的落后是因为日本的社会是前近代的,可是,在已经实现了近代化的日本社会,为什么还会有前近代的思想存在呢?所以他改变了自己的解释,他觉得这是日本的传统,从古代到现代有一个统一的文化,他把它叫作“古层”。

关于这一点,有人说丸山真男先生的思想发生了很大的转变,但我不同意这种说法。因为他思想上的敌人是同一个,只不过具体的解释变化了。因为日本社会本身发生了变化,可是日本人的思考模式、日本人的精神没有变化,所以他觉得应该改变他先前的解释。

在丸山先生之前,不是完全没有日本政治思想史的研究,也有一些零星发表的论文,但是并没有形成体系,或者说未形成有规模的研究,只有在丸山之后,日本思想史的研究才形成气候,而且非常兴盛。丸山先生在《日本的思想》中说,关于日本思想史还没有坐标性的研究。而战争以后,丸山先生的思想本身就成为坐标,其他的研究者根据与丸山先生的关系来分别定位。而且他培养了很多人才,他的学生又成为各个大学的教授,培养新的学生,研究日本政治思想史的人越来越多了,可以说丸山真男先生是日本政治思想史这门学科的开创者和奠基人。

今天的日本思想史研究如何超越以及在哪些方面超越了丸山真男先生呢?

渡边浩:弟子的义务之一是反对老师,所以,怎样超越丸山真男先生,是我们这一辈学者的责任。

第一,丸山先生研究日本思想的时候,常常用西洋的框架来分析日本,他用来与日本作比较的对象只是西方。可是我觉得,仅仅以西方作为参照太过简单,我们应该和中国、朝鲜这些邻近的国家、邻近的文化作比较,而不应该忽视我们的邻国。明治维新以后,日本受到西方很大的影响,和西方作比较当然非常重要,可是,如果我们将日本和中国、朝鲜作三边的比较,就能看到不一样的风景。其实这种研究的思路,我也是从丸山真男先生那里学来的。当我还是本科生的时候,第一次访问丸山先生的办公室,我对他说自己想成为日本政治思想史的研究者,丸山先生回答说:“如果你想研究日本,只知道日本是不行的。因为只知道日本的人,其实并不知道日本。为了研究日本,必须了解别的国家。”他要求我学习英语、法语、德语,因为明治维新以后的日本接受了这些国家的影响,他还要求我学习中文和韩文,并且说,如果想研究“兰学”,应当学习荷兰文,如果要研究十六、十七世纪西班牙、葡萄牙在日本的影响,还应该学习西班牙语和葡萄牙语。他自己并不懂得那么多种语言,可是他要求我去学习,大概他自己也觉得他的研究办法有问题吧。

第二,丸山真男先生把近代西方当作人类社会进步的方向,而我没有那样的想法。当然,我相信自由、平等、民主、人权等等是很重要的,而且人类作为有着同样的DNA的生命体,肯定有着根本的共通性,分享着一些基本的价值观,不然社会就不能存在下去。可是,我并不觉得现实的西方就是人类发展的方向。丸山先生确信人类的进步,可是我不能相信近代化的必然性,我没有他那样的进步主义的思想。在这一点上,我和所谓“后现代主义”的学者有共通的地方。我觉得人类的历史可以向任何一个方向发展,而且不一定是好的方向。

您本人是研究日本思想的,近来您的研究又广泛涉及东亚诸国,这在日本学界好像是一个趋势,能否谈谈为什么会关注东亚?

渡边浩:我并没有特别去关注东亚,可是我相信,为了了解日本的历史,我们也应该研究、了解中国的历史,因为从古至今,两国的文化经济交流非常频繁。特别重要的是,日本人的自我认同和中国有很大的关系。比如,德川时代的日本人觉得日本是一个小国,其实在同时代世界各民族当中,日本并不那么小,比英国、法国等等都要大得多,只是因为日本人参照的国家是中国,所以才会觉得自己是小国。

儒家文化中有所谓“中华”和“夷狄”的概念,日本是夷狄吗?很多日本人不想承认这种说法。当然有些儒学家承认自己就是夷狄,但是更多的人不能认可。所以有人说,中国是“文”的国家,我们日本是“武”的国家,我们也是很强的。还有人根据《论语》里的说法提出,“文”的方面中国比较好,可是“质”的方面,我们更好。总之,虽然使用了各种各样的办法来树立自豪感和自我认同,但是,无论如何这些办法都是和中国有关的。

对日本来说,中国就是一面镜子,“我们是谁”这个问题是在通过与中国的对比中而定义的。所以只看日本,不能了解日本的历史、日本的文化,这就是一个例子。

韩国和日本也有很多共同的地方:我们都是“夷狄”,我们都接受儒学、汉字、中国的制度,当然还有许多别的因素,比如说我们都用筷子,所谓“筷子文化圈”。进行这些比较是非常有意思的,如果我懂越南语的话,我也会去研究越南。我开始是研究日本的,但是研究的对象逐渐扩大。我对欧洲、美国也很感兴趣,我差不多三十多年阅读The New York Review of Books、The London Review of Books、Times Literary Supplement等等,可见我对欧美学术界的关注,所以我并不是所谓的“东亚主义者”。

在您的研究领域中,您和中国同行的交流如何?您对中国学术界的东亚思想史研究有什么印象和评价?

渡边浩:我和中国同行的交流很多,也有很多中国的学者朋友,还经常买中国研究者的著作。我每个月都看《读书》和香港中文大学出版的《二十一世纪》,非常有意思。我向中国的研究者学习,也向世界各国的研究者学习。

说到中国的东亚研究状况,我有一位台湾的好朋友,他是研究东亚儒学的教授。遗憾的是他对日本和韩国的认识由于受到语言的限制,而更多地关注那些用古代汉语写成的书,可是,如果不深入了解这些文献背后的社会和制度,就不能深刻地理解东亚的思想。在中国大陆,至少对日本社会的研究并不那么发达,特别是对于德川时代。比如说,很多人还使用“封建”这个词,而现在日本的研究者大多数已经不用这个词了。“封建”是英语feudalism这个词的译语,可是欧洲中世的feudalism和十七、十八世纪的日本有什么关系呢?因而把日本的德川时代叫作“封建”是没有意义的。

您身在东京大学法学部,却研究政治思想史,而在中国这通常属于历史学科,很不一样。那么能否介绍一下日本东京大学和京都大学法学部研究思想史的传统呢?

渡边浩:日本的大学,特别是国立大学的法学部,包括了政治学科。政治学和法学是国家行动的两个方面,国会的行动是为了立法,而政府的行动则是为了实践法律,所以政治和法律是一个问题的两面,法学部包括政治学是很自然的,这是以前欧洲大学的制度,东京大学的制度是从欧洲来的,所以也沿袭了这种设置。

在政治学科里面,研究的科目包括现代各国政治、国际关系、政治史、政治思想等等,所以我一方面是历史学者,另一方面也是政治学者。在日本的政治学界,研究政治思想史的人占据着重要的地位,像我以前就当过日本政治学会的会长,这是完全通过选举产生的。这就说明,在日本的政治学者当中,政治思想史的研究者并不是处于边缘地位的。这是战后日本政治学的主流,而这样的传统到现在还依然存在。当然,现在研究实际政治的人越来越多,比如用电脑来分析各种数据等等,可是基本的格局并没有改变。

京都大学的法学部也包括政治学科,可是很遗憾,他们有日本思想史的科目,却没有日本思想史的教授,我不知道为什么。别的大学里面也有日本思想史这一学科。

东京大学是第一个开设日本思想史学科的大学,那是在1930年代的后半期。为什么呢?那个时候在狂傲的民族主义的影响下,政府觉得东京大学只研究西洋的思想是不够的,还应该研究和教授日本的政治思想,所以就有了这个学科的设置。不过,那时候大学也还是有一些自主性的,所以像丸山真男先生那样的左派能成为日本政治思想史的助教授,二战以后成为教授,并且成为日本的所谓“进步知识人”的代表来批评自民党的政府。然而二战以前政府本来设置这个学科的意图是为了强调日本的特殊性,从而来对抗西洋思想的统治,这实在是一种历史的讽刺。

十年机缘待儒学

很久读过的,副标题是东亚。作者明和周勤,1999年由香港牛津出版OXFORD Press )。周勤何人也,因手头上无书,无法查阅,好像是杜的学生和合作者

一、关于儒家分期的分歧

“新儒家”提出了“儒学三期”的概念。牟宗三说:“第一期之形态,孔孟荀为典型之铸造时期”;“第二期形态则为宋明儒之彰显绝对主体性时期”;现代新儒学为第三期,“此第三期,经过第二期之反显,将有类于第一期之形态”。(方克立、李锦全主编:现代新儒学学案,下,第423页。中国社会科学出版社,1995年。)

杜对第三期儒学也就是新儒学的定位,是否与牟相同,尚待考证。牟的观点,将宋明儒学视为孔孟荀儒学的发展和扩充。这一点和日本的近世儒学家极为不同。

伊藤仁斋的《语孟字义》和东崖的《古今学辨》,都将“原始儒学”与“宋明儒学”对立起来。为了寻求真正的儒家学说,使用文字考据的方法,开创了所谓的“古义学”。藤原常雅撰《绍述先生行状》(東涯『紹述先生文集』)里介绍了伊藤父子理解的儒学思想史:父子两人以治与道的结合和分离为线索,把握儒学的历史发展沿革。

A.周公以前~礼記及制度整備治道一致時代。

B.周公以後~道学祖述道学伝播時代。

C.周衰退、秦焚書坑儒~礼学衰亡の時代。

D.漢代、治道分離(儒学成为专家之学)、五経思想横行。

E.六朝、仏教、老荘思想横行。

F.宋代、細微抽象の思弁、空理、空論。

二、宋初年儒学衰败

书中记述了北宋初年儒学研究不振的情形。北宋初年“淡泊,收拾不住,皆归释。” 之后赖两宋学者努力,儒学复兴,延续至近代,并将影响力扩展至整个东亚地区。

引文出自 宋人的《扪虱新话》,《四库全书总目提要》称此书“考论经史诗文,兼及杂事,别类分门,颇为冗琐,诗论尤多舛驳,大旨以佛氏为正道,以王安石为宗主。

原文是:尝问张文定,孔子去世百年生孟子,无人何也? 文定言: ‘,又有于孔者。’公?文定言: ‘江南、汾阳无、雪 峰、岩、丹霞、云是也。儒淡薄, 收拾不住,归释 耳。’服。”

对于儒学的衰落和佛教的兴盛,朱熹也有类似的表述:达磨未到中国之前,如肇法,只是庄老,后来亦庄老助禅,达磨入来,遂被他一切除,不立文字,直造人心,人材明遂被他得收去云云。道出其真相也(卷126P.3025

三、国外汉学的状况

国外汉学的研究“深入致,专业性很,且十分冷僻”,“汉学家,热爱中国文化,同也是出于一种奇特而冷僻的知性追求”。研究期刊有: ,法国学界合《通》(Toung Pao)。《哈佛洲研究》(Harvard Journal of Asiatic Studies)。《洲学》(Journal of Asian Studies)。《言学集刊》。《学研究》。《方学》。《洋文化》。

这种“唯知研究”情况在二战后有所改观,传统的“知性研究”转为“敌情研究”。“美国的新的汉学研究,实为反汉学研究,始于二战中的“敌情研究”。起初是为了训练从语言入手破译密码,军事方面的人才。” 大部分在西方接受学术训练的中国学研究者,强化了西方中心主义。

四、儒学如何复兴

本书取名为“再评价”,显示为儒学“正名”的姿态。这也符合杜维明作为新儒家的基本立场。一般来说,新儒家提倡的“儒学复兴”主要基于以下几点: “本土资源的开发和利用”,“对传统文化矫枉过正的再调整”,“西方中心主义的突破”等等。

杜认为破除“西方中心主义”,也就是西方普世化的价值需要两个条件:

1,“其本土的或“在地”的经验要有全球的 ,而不是一种的本土经验

2西方理模式普世化的前提提出挑

换言之,儒学需要作为一种新的普世价值被建立起来,并且与旧的、西方的普世价值相对抗乃至取代它。不过,现存西方价值观如是普世价值,又有何种不足,何种缺陷?如无不足何谈对抗?我想,大多情况下,结果可能仅仅是相对主义的。“各美其美,美人之美,美美与共,天下大同”。另一方面,因为“在不同的文化境中可以找到很多反证”存在镜子或者参照物,更有利于各自学说的完善和发展。

现在很多拥有国外学习、研究背景的学者,通过借用西方学术的理论、框架和方法,研究中国的历史,哲学和社会,大多时候做的是一种与西方主流学术界的“对话”工作。因为,福柯曾使用一个“中国百科全书”比喻,描述横亘于中西文化之间的深壑,“中国文化中所有的范畴,方法,结构等与西方都背道而驰,如时空的错乱以及很多在西方人看来是不成套的东西的混合交错。”这些学者,使用西方人能够理解的观点和概念,将中国的文化状况介绍给他们。这些的话,很多时候只是进一步加强了西方的学术霸权。

杜提倡的是一种合作和渗透的态度。“在一切所普世化价中切入中国面,以重构其内涵。

五、儒学的近代命运和新课题

五四务:如何将西方的普遍化方的特殊性打破,使方走向普遍化即代化。向直到是主流。” 普世化的价是西方的价,如科学,民主,自由,理性,个体性,法律所要作的,不仅仅是如何将些价在中大地上播种,开花,果。还需要“在一切所普世化价中切入中国面,以重构其内涵。

六、西方文明的局限

自由平等矛盾。分配的公正”(distributive justice)成普遍关切的课题

自由之不可限制

七、儒学可能的贡献“现代意义”

萨特的存在主义人的价值不是预设的,要靠人的选择

儒家认为:人来到这个世界是有深刻的意义的,现实的人和自然天道的关系就是人存在的理由,它传递了某种关于人的本质的信息。 人与天地万物为一体的观念。现在,处理人对自然及天道的关系中无法平衡,导致浮士德精神所代表的为了知识和权力出卖灵魂的后果。

八、传统之儒学批判

1黑格尔,韦伯式的否定性分判。从西方理性主义出发否定儒家传统中有任何超越当下的反省精神。

2,霍尔(David Hall),安乐哲(Roger Ames)所代表的肯定性消解。以文化多元主义为基调肯定儒家思想中的情境性,习俗性,在文化和社会网络中根据周遭世界的“此在性”确定行为规范或道德准则,从而消解了其核心价值。

二者都否定了儒家的思想内核。

3尼维里(Robert Neville 《规范性文化》(Normative Cultures),重新强调传统中的礼的分量,强调荀学。

4李泽厚,郑家栋,《新儒家论衡》,突出荀学,重视外王。吕祖谦,陈亮,叶适,颜元所代表的经世之学的儒家谱系