史料 田中正造の政界デビュー
田中正造の最初の選挙は、次点での落選だった。
佐江衆一『田中正造』岩波ジュニア新書 p37~
区会議員として小さな政治の世界に第一歩をふみだした正造は、栃木県を代表する民権家としての活動も開始します。明治一一年(一八七九)八月、前年に創刊した栃木新聞(のちの下野新聞)が廃刊になっていたので復刊し、編集長となり、「黒海を設立するは目下の急務」と題する論説を発表します。人民に政治に参加する権利を与え、国会を開設しなければ、人民の要望は達せられないという内容で、これは栃木県内の国会開設運動を活発化させるきっかけになったばかりか、全国の自注民権運動に結びつく役割ももったのです。 この年、栃木県会が発足します。その第一回選挙におしくも次点で落選した正造は、翌明治一三年(一八八〇)二月の安蘇郡補欠選挙で当選し、栃木県会議員になりました。村から県へと活動の場がひろがったのです。
由井正臣『田中正造』岩波新書 p47 ~
栃木県会は、明治一二年四月一日に最初の県会議員選挙をおこない、同月一四目に第一回通常県会を開いた。初期の県会議員選挙は、激しい選挙戦もなく、戸長その他地方有力者の推薦によって選出されることがおおく、ほとんどが豪農・商の地方名望家で占められた。本人が立侯補する意志もなく当選することもしばしばで、そのため任期中途で辞職する人が続出した。正造の選挙区安蘇郡でも、第一回選挙で当選した四人のうち三人までが、わずか八、九か月で辞任した。正造は、第一.回選挙において立侯補の意志をもちながらも、隣村赤見村の天海耕作を推し、みずから相当数の票を集めたが次点で落選した。しかし、三名が辞任した結果、翌一.三年二月に補欠選挙がおこなわれ、正造は最高点で当選した。こののち明治二三(一八九〇)年七月に衆議院議員に選ばれるまでの一〇年間、正造はつねに最高点で選ぱれ、県会議員の座を占めつづける。
『田中正造全集』岩波書店 第一巻
「回想断片」p323
{断片三八}
一二年県会議員選挙に付き、父の名の庄蔵と正造を混同し反則投票過半にして落選となり、天海耕作、關口省三の二人当選せらる。正造大に悔ゆ。此時涌井藤七は最高点と覚ゆ、然るに同人不在にて受けず、又下都賀郡の森鴎村同郡の最高点なれども辞して受けず、之に反し正造は窃かに落選せしを悔えたるを見て、正造は当年の野心多きを知るべし。…
{断片三九}
明治十一年区会の幹事となり、閉会の日副議長同志天海耕作氏と経済上に於いて論争し、遂に互に腕力に及ばんと、支えるものありて止むと雖も互いに喧嘩、近隣大いに驚けり、会員恐怖す。巳にして県会開設の公布あり、生野心ぼつぼつたれど、天海と喧嘩せし評判高きに競争せば頗る卑劣の誹りあらんと窃かに天海氏のため運動せり。戸奈良村山菅某に説く、氏生の義挙を嘉みして天海氏投票す。生は斯して天海氏を押すほどなるに、当時郡役所詰合の人々は生を忌弾して選挙にも多少干渉ありしものか。
九百点 關根彦十郎
八百八十八点 天海耕作
八百八十七点 關口省三
八百八十六点 田中正造
且つ生は父も庄蔵と呼び、生は田中正造と呼びたれば、同性(ママ)同音の為父の名を投票せしもの百八十余人の多きに登りて、皆無効投票とせられて、一点違ひの關口省三に打ち負けたるは非常に怪しめるもの多けれども、郡吏の取り扱いを以て之に決せられたりとは後に至って知り、頗る残念を感じたりき。但し十三年に至り選挙人数二千六百人中二千二百二十二点の大多数を以て投票せられ、爾来県会より衆議院に移り、二十年間未だ次点に下りし事一回もなきは不相応の出来なり。…
下野新聞社『二里山の星霜 栃木県議会百年史』昭和五四年
初の県議会 p14
《満.25歳以上で地租10円〉
県議会の最初の選挙は明治十二年(一八七九年)四月一日に行われ、二週間後の四月十四日から初県会が開かれた。本県における議会政治のスタートである。
この選挙は、郡長の管理で各郡別に行われた。議員の定数は三十六人。議員の資格は満二十五歳以上の男子で、県内に三年以上住んでいて地租十円(二ヘクタール以上)以上納めている者。官吏や教導職にある者は、議員となることができなかった。これに対して有権者は満二十歳以上の男子で、地租五円以上を納めている者(府県会規則一となっている。
現在と比べると、一部の人だけが立候補、選挙権を持つ全くの差別選挙だった。この時の立候補者や有権者数が何人だったかは記録がないので定かでないが、このように公選とは名ばかりで、しかも議澱の地位は宵僚政治、つまり政府、をバックとする県令の賛任分担者にすぎなかったし、初の選挙だったことも加わって、進んで立候補しよう、などという人は少なかったようだ。
それぞれの村や町で、主だった人たちが集まり「あの人にやってもらおう」というケースが統出した。中には本人の意志とは無関係に候補者にされ、いつのまにか県金議員にされてしまった、という謡もある自従って、選ばれた三十六人は、いずれも地域の豪農や芦長、あるいは士族などの知識人らで、いずれも地方の名望家だった目この中には初尤議長に選ばれた上都賀の安生順四郎(清州村)や副議長の野沢泰次郎(大内村一のほか、県政財界で活躍する矢板武(矢板村)、小峰新太郎(豊田村)、鮎瀬淳一郎(伊王野村)などがいた。
「これより会議を開場する」。初県会は、選挙二週間後の四月十四凹に開金した。場所は県庁(栃木町)内に新設された神武神社の本堂。会期は、予算などの織案が多かったこともあって、延長を重ねて六月二日までの五十日に及んだ。県令は初代の鍋島幹。
p325
歴代議員一覧
第一回(定数36人)
明治12年4月~13年12月
(安蘇郡)(定数4)
大川 剛
関根彦十郎(辞)
田中正造(補)
天海耕作(辞)
涌井藤七(補)
関口省三(辞)
内田太蔵(補)
石井郡三郎(補)
川俣久平(補)
『栃木県史』資料編 近現代一
県議会議員一覧 p501より
関根彦十郎(犬伏町平民)
同上(「十二年四月初期総選挙」のこと)ニテ当選十二年十二月辞任
田中正造(赤見村平民)
十三年二月関根彦十郎辞任補欠トシテ当選
十三年十二月第一回 十七年六月第三回 二十一年第五回半数改選ニテ再三当選 二十三年七月辞任
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