2011年7月5日火曜日

吉田向学2

小松裕著『田中正造』をパラパラめくってみたところ、「はじめに」にこのようなことばがありました。



私が田中正造の思想をまとめてみようと思いたったより直接的な理由は、次のような研究史の状況に存在している。田中正造に関する手軽な研究書としては、すでに、林竹二『田中正造の生涯』・・・がある。しかしながら、残念なことに、これらの著作においては、田中正造の思想の特徴が充分に描かれているとはいいがたい。林の『田中正造の生涯』は、正造の、とりわけ谷中村入村後の思想の分析に優れたものであるが、史料の歴史的背景と文脈を無視した強引な解釈も目立ち、必ずしも正造の思想を正しく伝えているとはいえない。・・・つまり、田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書は皆無といっていい状況なのである」。



小松の「はじめに」のことばから、林竹二著『田中正造の生涯』を超える田中正造研究の成果を期待したのですが、期待はものの見事に裏切られてしまいました。



『田中正造』の「はじめに」に記された、林竹二の田中正造研究に対する批判は、いわゆる批判のための批判・・・でしかないと思わされました。小松の林に対するどの批判のことばをとっても、林の研究成果をいたずらに否定する、悪しき中傷でしかないのではないかと思わされるのです。



『部落学序説』の筆者の目からみると、林の田中正造研究は、小松の指摘するのとはまったく逆で、「史料の歴史的背景と文脈」を踏まえ、田中正造の内面の苦悩と葛藤、その思想を描き出してあまりあるものです。林竹二著『田中正造の生涯』は、「田中正造の思想の全体像とその独自性を本格的に論じた研究書」として評価されてしかるべきものです。



それにひきかえ、小松裕著『田中正造』の内容は、無学歴・無資格の筆者の目からみても軽佻浮薄としかいいえないような内容です。小松が明らかにしようとしている、田中正造の思想は、田中正造の思想と人格を無視して、近代歴史学の一般的・通俗的見解である「近代進歩史観」を、それこそ「強引」に適用したものにほかなりません



林竹二の田中正造研究が、史料からの「読み出し」であるとするなら、小松の研究は、史料への小松の価値観の「読み込み」に過ぎません。小松の林批判は、批判によって、田中正造研究の質をひきあげるものではなく、まったく逆に引き下げて、貶めるものに他なりません。



小松は、その著『田中正造』の「第1章 田中正造の生の軌跡と足尾鉱毒事件」で、田中正造の生涯をとりあげていますが、『田中正造全集 第1巻』(自伝)を読んだのだろうか・・・、と首をかしげたくなるほど、田中正造本人のことばを無視しています。しかし、林竹二著『田中正造の生涯』の「第1章 政治家田中正造の形成過程」では、その行間にすら、田中正造の人格と思想が滲み出ています。



表面的・形式的な論述に終始する小松の『田中正造』は、田中正造と谷中村の農民に深い共感を持って執筆された林竹二著『田中正造の生涯』には、足元にも及ばない・・・と思われます。



明治7年、田中正造は、「上役暗殺事件で嫌疑を受けて投獄されて、明治4年2月から36カ月と20日間の牢獄生活を経験」します。明治7年4月出獄が許可された直後、帰った故郷での田中正造のことばとして、「田中正造穢多を愛す。」が語られているのです。当時の男が「愛す」と宣言するのは、尋常ではありません。それでも、「愛す」と宣言した田中正造の精神世界を解明せずして、田中正造のほんとうのすがたを描くことは不可能ではないでしょうか・・・。(続く)



田中正造を研究する多くの学者は、田中正造の自伝を充分には把握することができないようです。研究者の中に、田中正造に関する間違った固定観念が蔓延しているような気がします。




歴史研究において、従来の一般説・通説を根底から覆すことの機会・・・、というのはそれほど多くはないと思われます。たとえ、「自己満足でしかない・・・」と笑われようと、その機会が筆者の手元にある・・・、というのは痛快極まりありません。



つまり、田中正造が、「余は下野の百姓なり。」というとき、それは、田中正造が下野の「百姓」であって「武士」ではない・・・、と主張しているのです。



『田中正造昔話』を読みますと、田中正造が、「百姓」であることに、自身と誇りを持って生きていたことを彷彿とさせるいろいろなことばに遭遇します。田中正造は、「百姓」に生れたことを誇りとし、「百姓」としての天分をまっとうしようとします。



田中正造は、「武士」身分におくれをとることなく、「百姓」の目からみて、「武士」の生き方を、ときにはするどく批判します。みずからが「武士」であることを誇り、その特権にあぐらをかいている「武士」に対して、激しく批判のことばをあびせます。



田中正造の「百姓」としての尊大ともみえる生き方は、祖父・正造、父・庄造から受け継いだものです。



田中正造の父・庄造は、六角家2000石の割元(西日本では大庄屋ともいう)になったひとで領主から信頼された庄屋のひとりです。父・庄造も、祖父・正造と同じく、「小中村の百姓の信望を集めて・・・名主に選ばれた」の(林竹二著『田中正造の生涯』)でしょう。父・庄造は、領主から信頼され、苗字帯刀を許されます。



その父・庄造のもとで、田中正造は少年時代を過ごすのですが、こどもの頃、田中正造は「がき大将」としえ名を馳せていたといいます。その昔話のなかで、田中正造は、「がき大将」であり続けるためには、「喧嘩の腰前と腕力の強き」だけではむずかしいといいます。田中正造は、「信を守る」ことに徹したからこそ「がき大将」でありつづけた・・・といいます。



この少年時代の田中正造の経験は、田中正造の全生涯を通じて影響を与え続けたのではないかと思います。人として最も大切なのは、「信を守る」ことである、と。




田中正造は、「信を守る」ことを止めたとき、ひとはどのような辛酸をなめることになるのか、15歳のときに経験します。15歳のとき、悪友にそそのかされて青楼に遊び、梅毒をうつされるのです。1回の遊びで3年間という長きに渡って、その病苦にさらされるのです。田中正造は、その事実を隠そうとすればするほど、そのことが露顕する経験をさせられるのです。田中正造は、おのれは、嘘、偽りを遠ざけ、信義に基づいていきるべき・・・と確信を抱くようになったようです。



15歳で梅毒を経験したことは田中正造の不幸ですが、その苦い経験によって、田中正造が、嘘、偽りを遠ざけ、ならぬものはならぬ・・・という精神でいきることの大切さを学んだのは不幸中の幸いであったと思われます。田中正造は、ふたたび同じ過ちをおかすことはありませんでした。



田中正造の父・庄造は、六角家用人坂田某と協力して、六角家の不良債権を解消し財政再建に貢献するのですが、坂田某死去のあと、林三郎兵衛というものが役につきます。この林という人物、法的逸脱行為に走ること意に介せず、坂田某と庄造が蓄積した5000両を「公共事業」の名を借りて私せんとします。工事代金の3~5割を賄賂として業者から還流させようとするのです。



田中正造の父・庄造は、この林三郎兵衛の奸計にくみすることなく、その奸計を潰してしまうのです。庄造と「気質互に相容れず」、父・庄造によって、そのたくらみを阻害された林三郎兵衛から、「仇讐の如く」つけねらわれることになるのです。その怨念、逆恨みは、父・庄造だけでなく、子・正造にまで及びます。



その怨念に端を発した六角家の騒動を「六角家騒動」(小松裕著『田中正造』)といいます。



林竹二著『田中正造の生涯』では、この「六角家騒動」は、「領主六角家の政治の「不法」を正すため」の「農民の抵抗運動」であったとしていますが、小松裕は、田中正造の昔話に書かれていることは、「話をおもしろくしようという意図からか、かなり勧善懲悪的な潤色が施されており、また、これを執筆した1895(明治28)年時点の正造の思想も多分に投影されている。歴史の史料として扱うときには注意が必要である」といいます。「六角家騒動」の発端となった件については、「他の多くの藩や領主も取った一般的な施策」であるとし、「正造には、それが、六角家筆頭用人の林三郎兵衛などの私腹を肥やすためのたくらみとしか見えなかっただけのこと・・・」と切って棄ててしまいます。



当時の「公共事業」にまつわる不正事件について、「他の多くの藩や領主も取った一般的な施策・・・」と強弁し、「公共事業」をめぐって不正に利権を漁ろうとした六角家筆頭用人の林三郎兵衛を弁護し、田中正造の批判は事実誤認、田中正造の妄想に基づく・・・という、熊本大学文学部教授・小松裕の発想はどこから出てくるのでしょうか・・・。



小松は、田中正造を「ヒロイックな心情」の持ち主であると断定します。



この「六角家騒動」の際、田中正造は、獄中にとらわれの身になりますが、田中正造は、「予が奸党等の為に封鎖せられたる牢獄と云は、其広さ僅かに3尺立方にして・・・」と昔話で語っていますが、小松は「真偽のほどは確かではない。」と疑義を表します。



林は、「生きながらえて勝利を収めた」と評価しますが、小松は、「紆余曲折を経ながら、最終的に六角家側が、主君後退、林らの追放・・・」に終わったことを、間違った裁判の結果・・・であると主張しているようにみえます。



小松裕著『田中正造』の「第1章 田中正造の生の軌跡と足尾鉱毒事件」を読みながら、熊本大学文学部教授・小松裕の不可思議な解釈にあきれてしまいます。



小松は、田中正造の昔話を全面的に否定して、そのうえで、なおかつ、田中正造の思想を明らかにすることができるとほんとうに考えているのでしょうか・・・。田中正造がみずから語る昔話を、小松の歴史学者としての、あるいは政治的信条からしての予見と偏見で断裁するのではなく、その昔話という、ひとつの「伝承」の背後にある「歴史の核」をなぜ追究したり、明らかにしたりしないのでしょうか・・・



「六角家騒動」の背景には、近世幕藩体制下の「武士」身分と「百姓」身分の葛藤があります。当時の「公共事業」によって不正な富を画策しようとした林三郎兵衛と田中親子は、「支配」と「被支配」の関係ではなく、「支配」と「支配」の関係です。どちらも、領主から、「役」を与えられ、その「役」を忠実に果たさなければならない義務があります。



「筆頭用人」と「割元」との抗争は、「支配」と「支配」の葛藤状態を意味しています。



日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と「愚民論」は、小松裕の中にも深く浸透しているのでしょう。「武士」を高く評価し、「百姓」を低く見下す、愚民論に深くとらわれているように思われます。



小松裕は、この「愚民論」にたって、田中正造の人と思想を見ているようです。田中正造の父・庄造が、近世幕藩体制下の、司法・警察である「非常民」として、十手を預かっている現実を故意に無視しています林竹二は、「名主」としての田中父子は、「村内一切の公務」とともに「非常の権力」を領主から公認されていることを指摘しています。



この「非常の権力」というのは、「法」に照らして「法」を執行する権力のことです。田中父子は、領主からこの権力を付与されているといっても過言ではないでしょう。もちろん、「領主」が「法」に背く状態にある場合は、「法」の執行官として「非常の権利」を行使するのは非常に複雑な様相を呈してきますが・・・。



小松裕著『田中正造』において、小松裕は、田中正造の「武士」批判をことごとく否定・抹殺する傾向があります。



支配される側の「百姓」であると共に、支配する側の「名主」でもある田中正造の、同じ支配する側にあって法的逸脱をしてまで、私腹を肥やそうとする「武士」に対する批判は、近世幕藩体制下の「武士」・「百姓」という身分的序列に反するとでも考えておられるのでしょうか、小松裕は切り捨ててかえりみません。



田中正造は、その昔話において、「幕末の時、仰ぐ可きの法制なし。守る可きの規律なし。」といい、「武士」が本来の「武士」たるものの職責をまっとうしないがために、弱肉強食を背景に殺生与奪の権が「武士」に私物化されている・・・と主張します。



近世幕藩体制下の司法・警察である「非常の民」としての「名主」(村方役人)である田中正造は、「非常」に際してどのような措置をとらなければならないか、熟知していたと思われます。



ところが、領内における政道をただそうとする「非常の民」・「名主」田中正造に対して、「武士」たちは、「天下の大罪」を犯したものに課せられる「三尺立方」の牢屋に田中正造を閉じ込めた・・・というのです。なせ、領内の不正をただそうとしたものが、「天下の大罪」を犯したものに課せられる「三尺立方」の牢屋に閉じ込められなければならないのか、田中正造は、「非常の民」(名主)として「非常の民」(武士)に対峙したと思われます。



このときの状況を、田中正造は、『回想断片』の21と23に記しています。「断片21」と「断片23」は、同時に読まれるべきものです。一方を受け入れ、一方を排除するのは、どちらの断片の真意も見逃すことになるでしょう、両方の断片を排除するのは、田中正造のひとと思想を最初から、根源的に否定することに通じるでしょう。



「断片21」は、幕藩体制下の「武士」支配の頂点である「元領主」(六角雄太郎)に対する、また「断片23」は、同じく幕藩体制下の「武士」支配の最下層である「元穢多」に対する、田中正造の真意が綴られているのです。



「武士」身分によって数々の辛酸をなめさせられた田中正造は、「旧武士」(軍人)に対して厳しく批判する一方、「元名主」であった田中正造同様、「非常・民」として共に、六角家の領内の治安維持にあずかってきた「旧穢多」(警察官)に対して限りない尊敬と愛着をもって接するのです。



それが、「断片23」の「田中正三穢多を愛す」の真意なのです。



田中正一著『田中正造 その思想と現代的意義』のなかで以下のように記述されるのは、田中正造のひとと思想を無視した典型的は評価・・・、的を外したまったく見当はずれの解釈であるといわざるをえないでしょう。



ここで問題となるのは部落差別というものは、被差別部落民の立場からすれば、田中正造一個人の庇護や温情によって解決されるものではない。彼の側からは、「平民主義」の実践であるものも、被差別者から見れば当人の気休めにしかならないこともある。その冷厳な断絶について、彼は無自覚であったと言えるであろう。これと同じ型の関係が、彼と農民との間でもしばしば生じたようである」。



田中正造に代わって、田中正一氏に反論すれば、




田中正一が田中正造に対して、「当人のきやすめ」、「その冷厳な断絶について、彼は無自覚であった」と断罪するのは、時間・空間を無視してなされる、単なるたわごと・虚妄でしかない・・・といわざるをえません。



大学の教授・小松裕にしても、大学生として卒論に『田中正造 その思想と現代的意義』をしたためた田中正一にしても、田中正造のひとと思想を明らかにするというよりは、小松裕・田中正一固有の価値観をいたずらに適用した身勝手な研究、否、研究の名に値しないものではだいでしょうか。



1891(明治24)年12月18日、「第2帝国議会において、はじめて、足尾銅山鉱毒問題に関する質問書を提出」まえの、田中正造の人生51年間の歴史と、そのひとと思想を、「田中正造」ということがらに則して解明せずして、その後の田中正造の思想と行動を把握することができるのでしょうか。



小松裕は、その著『田中正造』の「あとがき」でこのように記しています。



丸山真男の「追創造」について紹介したあと、「思想史の研究も同じであり、その魅力も、史料的制約の枠内で、可能な限り想像力を駆使して行う解釈という作業に存在している。・・・しかし、思想史の魅力は同時に恐さでもある。それは、いくらあがいても、研究者の力量に見合った”等身大”の思想家像しか描けないという恐さである」。



小松裕の恐れは、その著『田中正造』において現実のものになっているとしかいいようがありません。小松裕の『田中正造』のなかで描かれている田中正造は、小松裕が理解している「田中正造」であって、田中正造そのものではないのです



『田中正造全集第1巻』に収録されています『回想断片』から、21番目と23番目の断片をとりあげてみましょう。



「断片21」は、「明治7年と覚ゆ、正造南部盛岡県の獄を出でて郷に帰る。」ということばではじまります。



田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。六角家は、2000石の旗本です。



『武家の女性』(岩波文庫)の著者・山川菊栄によりますと、近世幕藩体制下においては、「武士」は、500石以上を「上士」、500石未満から100石以上までを「中士」、100石未満を「下士」と3段階に区別されていたようですが、そういう意味では、2000石の六角家は「上士」(最上級の身分)になります



しかし、「旗本」というのは、「石高1万石以下で將軍に直接謁見を許される者」(竹内理三編『日本史小辞典』(角川小辞典))ですから、その石高は、最大から最小までは天と地ほどの差があることになります。「旗本」の60%は、「100石から500石の小知行主で、領地の支配は幕府代官にゆだね、年貢の収納していた。」といわれます。「旗本」が、「陣屋を置き、自分で支配」することを許されるのは、3000石以上ということになります。



2000石の六角家は、「年貢の収納」については、六角家の用人がそれを担当していたように思いますが、六角家が、その領地に「陣屋を置き、自分で支配」していたかどうかは定かではありません。「陣屋」を置いた場合は、「年貢の収納」だけでなく治安の維持も自前でおこなわなければならないでしょうから・・・。



つまり「庄屋」・「名主」は、「百姓」に属するという点では、「武士」の支配を受ける被支配の側にたたされたと思われますが、「非常民」としての「庄屋」・「名主」は、その他の「百姓」との関係においては、「百姓」を支配する側に身を置いていたと思われます。



「庄屋」・「名主」の職務は、武士支配の「武士」・「穢多」と違って、「支配」・「被支配」の両方の側にたって、遂行されなければならないものです。




山川菊栄がいう「没落」してく「武士」・「旗本」の現実の姿が、田中正造の「断片21」に記されているのです。



田中正造が故郷に帰って数ヶ月後、旧六角家の当主・六角雄太郎が尋ねてきます。それは、生活「困窮の為め・・・旧領民の救いを乞」うものでした。六角雄太郎は、かつて、田中正造が「賢君」として認めた人物です。「然るに今生活に窮したりとて旧領地に来るとは・・・」と驚きはてて「骨なしの所作なり」と心の中で思うのです。



田中正三は、旧領主・六角雄太郎にむかって、自分の襟をただして、このように質問します。



公は、その後、何等の学文を為せしや」。


元領主、答えて、「学文を為さず」といいます。



田中正造は、「然らば芸は何を為せしや。礼楽射御書数、その内何をもって熟達せられしや」と問いかけます。


元領主、答えて、「そのうち1科も学ばず」といいます。





林竹二著『田中正造の生涯』の「谷中の苦学と開眼」の中に、その葛藤がしるされています。



正造は、谷中の人民の中に、自分とは類を異にする存在・・・別の「人類」を見たのである。強制破壊の前夜、正造はこの「人民」と生死を共にすることを誓ったのである。正造に彼らのために死ぬ覚悟があったことは、疑う余地はない。だがこの誓いを守るのに、決定的な困難があった。それは正造が、いままでの正造であるかぎり、彼らのために死ぬことはできても、彼らとその生を共にすることはできないという一事である。正造は谷中に入ったが、人民の中に入っていなかったのである。彼は自分の中に、まさしく「人類以外に立って、人のために何かをしようとしている」愚人を認めざるを得なかったのである。・・・正造は改めて、谷中の人民の中にはいって、その一人となるか、あるいは谷中の戦いから手を引くかの二者択一の前に立たされたのである」。



林はさらに続けます。



一つの事を学ぶということは、その事において自分が新たに作られることだ・・・学ぶということは・・・自己を新たにすること、すなわち、旧情旧我を誠実に自己の内に滅ぼしつくす事業であった。その事がなしとげられないあいだ正造においては「理解」は成立しなかったのである。・・・学問が人を自由ならしめるのは、学問が借りをつぐなうことにおける仮借のない誠実さに裏付けられているときだけである。学問が田中正造の人生を救う力であったのは、それが充分にこの裏付けを有していたからである。田中正造の苦学の中心課題は、旧情旧我の牢獄を出ることである」。




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