村落の明治維新研究
豪農民権の源流と文明開化
渡辺 奨 三一書房
序章
1、幕藩体制を崩壊に導いたのは薩摩、長州蕃等の下級武士勢力にあったとはいえ、その社会、経済的背景には、多数の村落が危殆におちいり民衆の世直し(よなおし)、御一新への期待があったためである。
2、明治政府――廃藩置県――村落、行政、産業経済、生活と精神にまで広汎な地殻(ちかく)変動が行われた――立ち向かったのは豪農村落指導者である。
3、豪農層――手作り地主、農村小工業、金融の経営者、里正(律令制、50戸を一里とし里長を置いた。715に郷と改められ、郷里制に移行した)、村役人、農村知識人として文化の啓蒙、――幕末維新期にはこのような豪農、名望家が各地の村落に層厚く散在していた。
4、明治十年代の自由民権運動は日本全国の津々浦々(つつうらうら)の村落にまで風靡(ふうび)した。天賦(てんぷ)人権論に目覚めた豪農層は豪農民権派を形成し、国会開設、地租改正、不平等条約の撤廃(てっぱい)、自治の要求等を掲げ、明治政府に対抗し、日本で最初の民主主義運動として立ちあがった。
5、鹿野政直 『明治の思想』(昭和39年、筑摩書房) 、「自由民権運動は、農村が主体となり」
6、色川大吉『天皇制イデオロギーと民衆意識』 「この豪農層が民衆の中の指導者となって展開した明治十年代の一大教育運動、一大思想運動」であり「地方政社=学習結社の組織や郷党の人民の啓蒙に動き出す、史上かつて例を見ない『豪農層の熱情的な学習意欲時代』」
7、明治の時代となり、村落指導者、豪農層が立ちあがり、村落の文明開化政策を推進するなかに試行、対立、相克の実践をとおして、天賦人権論、自由民権論に覚醒された。……また、その前の村落の御一新運動、そして世直し、尊王攘夷運動にもその源をたどる必要がある。
8、鹿野政直「序論――統治体制の形成と地域」(鹿野政直、由井正臣編『近代日本の統治と抵抗』1982年、日本評論社)。明治政府の新国家創成に対して民衆わがの目標として「世直しから自由民権へと噴出してゆく政治的民主主義の実現にあった」と総括している。「世直しから文明開化への動きは、人々の内に権利主体としての意識をつよめ……運動主体からみて二つの問題を提起する。一つはいわゆる『豪農』であり、いま一つは一般農民ないし貧農である。」
9、文明開化――「風俗的都市的現象」VS「農村の広汎な精神的地殻変動」――鹿野、文明開化の村落への波及は豪農の「文明」に対し、下層農民の「野蛮」との著しい対象を生みだしたと論じた。
10、色川大吉、「民衆意識の発展過程――維新期から民権期へ」、天皇制イデオロギーと対峙する民衆意識を概観し概念規定をし、画期的な論文。
11、小西四郎、「文明開化と近代」の座談会(『歴史公論』特集文明開化第四巻二号、昭和五十三年 雄山閣)
A、幕末期とのつながりがどうかということを、もう少し考えてみる必要がある。
B、政治史的な動きと文明的な動きとの関連の上で、文明開化を解明していく。
12、村落の豪農層の活動の場は「地域」という場であり、その民衆活動の核となったものは「結社」という組織である。
13、色川大吉『歴史の方法』(1997年、大和書房) 、研究の方法として「場」の理論を掲げ「ある一地域を限定して、その地域の中での政治的起爆力、文化の創造力、これもひとつの知的な爆発力だが、それを重視せざるをえない」
14、「村落共同体」――本質は生活と生産の共同性にあった。
15、色川大吉「天皇制イデオロギーと民衆意識」、「『結社』の思想とでもいうべきあたらしい思想を生みだした。これは村落共同体的な結びつき方とは異質な人間関係の思想である。これは西欧から輸入した政治組織のたんなる模倣としてではなく、近世以来の農民が苛政のもとで生き延びる方法として編み出した独自の組織の様式、つまり「結」とか「講」とか「一味同心」というようなものの発展である……しかも、民権期の多くの結社は、『凡ソ此社ニ入ル貴賎ノ別ナク同等ノ権利ヲ有シ』……古い村落的身分秩序や共同体的な長老主義、権威主義を内部から変革するような、新しい解放的ムードを孕んでいたものである。」
16、神奈川県南多摩(現在東京都町田市)、
17、幕末の豪農層は経済、社会的地位の向上にともない儒学、漢詩、和歌、俳句、書画、剣術等を学ぶ風潮が起こり、農村知識人が生まれた。この地域の里正、村落指導者は特に儒学を必須の教養として学び、その影響は大きく儒教主義は血肉化し、また漢詩文学の流行とともに好んで詩作し、自分の志をうたいあげ幕末維新を乗り切ってきた。この儒教主義は明治の時代となっても豪農民権派に継承され、これをぬきにしては在村的潮流の把握は不可能である。
18、自由民権思想への儒学の影響。
庄司吉之助 「変革期における農民思想の問題」(坂根義久編『自由民権』昭和四十八年、有精堂)
「広汎に普及した朱子学が、農民層に受け入れられた場合、各々異なった身の付け方をしている。封建的秩序を持続しようとするもの、寺子屋教育を行うもの、幕・藩政の批判をなすもの等が出てくる。管野八郎の如きは水戸学に切り替えると同時に新しい秩序への展望を懐いている。一方このような混乱した世の中に世直しの運動が展開してくる。朱子学や復古思想は、封建社会の秩序を批判する役目を果たすと同時に反動思想として、封建秩序を庇護する本来の役目をもったまま次代に持ち越されるのではなかろうか。大きい収穫は世直し思想の自生的発展である。そして世直しの闘争に引き続いて自由民権思想の発展へと駆けり立てるに至ったと思われる。自由民権思想の芽生えは、いきなり朱子学や復古思想からは出てこないであろう。世直し思想の橋渡しと闘争があって初めて地についた運動体系として実を結んだのが民権思想ではなかろうか。」
19、色川「天皇制イデオロギーと民衆意識」、新しい外来思想によって解釈し直すことによって、その伝統的な意味内容を発展させたり、新しい意味に変えたりしている。例えば、儒教が本来もっていた「天」や「理」という超越的観念とか、それによる「王道」や「革命」の観念を外来思想の論理操作を借りて純粋化、理想化し、それを明治国家の支配者と人民との関係に適用することによって、変革的な思想を作り出していく方法を取った。
20 神奈川県南多摩(現在東京都町田市)、とくに旧小野路村寄場組合。小島為政、石坂
21、豪農層は儒学を封建教学としてとらえるのではなく、原始儒学に立ち返り、儒学の仁、修身斉家を学ぶことにより人間を開化するという考え方の上に立って文明開化を受容した。経世済民、仁の政治を儒学から学びとった里正、村落指導者は幕末維新の村落行政に実践し、修身斉家を村落生活の基本と考えるようになった……この精神的基盤の上に西欧思想を受容し文明開化政策を実施した。このため儒学・漢詩は明治の民衆思想の近代化に大きな役割を果たしたことを高く評価しなくてはならない。
22、儒教主義は豪農民権派の底流として強固に生き続け、自由民権運動を推進しながら、自由民権思想の学習と並行して儒学・漢詩を学んだ。
23、文明開化期には、儒教は人間を開化に導くものとして唱導されてきたが、自由民権期になると開化主義の反動として復古主義が台頭し、儒学の趨勢は保守派に転じ、広汎な儒学の復興が起こり隆盛を極めた。
24、儒教主義に徹する小島為政らは、文明開化、自由民権を欧化主義と批判し、益々、非文明意識を強めるようになった。
第一章 幕末期里正の変革思想
1、小島為政(こじまためまさ・鹿之助 しかのすけ)、天保元年(1830)2月1日、生まれた。石坂昌孝、天保十二年(1841)4月22日。
2、石坂昌孝(いしざか・まさたか)、「昌吉雖不甚読書。而通大義。忠以奉上。恕以接下。雖曰未学。吾必謂之学」
3、世襲制の名主から年番制や入れ札(江戸時代、村役人などを選ぶとき、名前と書いて投票した用紙)に移ったとはいえ、幕末になるにしたがい、地頭の旗本に財政難が起こり、豪農里正らからの新たな収奪が行われた。その豪農里正らへの代価として苗字帯は世襲名主で、その名刀の免許等で新しい結合関係が生まれ、そのため名主職の威光を振う里正が一般的となった。 (苗字帯刀 みょうじたいとう、苗字を名のり、刀を所持、携行する権利。江戸時代の武士身分を象徴する特権。例外として、功績・善行を認められた農民・町人にも与える。)
三 儒教主義里正の民治の実践
1、豪農層にも文雅の道を学ぶ風潮が高まり地方文人が生まれた。
2、小島は文雅の道をたしなむ祖父政敏、父政則とはちがった、儒学の素養を幼少の頃から徹底的にしこまれ成長した。
3、一部圣经千古心――『論語』を「千古の心」とし、自己の生きる指針とするようになった。
4、儒学を本格的講究することにより、儒教の仁による愛民思想の民治の実践者としての新しい里正像を自ら作り上げた。
5、小島は儒学の講究とともに漢詩の文雅の道を窮め、さらに天然理心流の剣術を学び、近藤勇(こうとういさみ)とは意気投合する仲となり義兄弟の縁を結んだ。(小島は近藤から剣術を学び、近藤は小島から儒学を学んだ)小島は『論語』を中心に四書五経を学び、さらに朱子学から宋、元以降諸儒学を講究し、その上に荻生徂徠、伊藤仁斎ら日本の儒者まで及んでいる。その六千巻の蔵書に「無不寓目」の勉学ぶりである。
四、草莽の尊王攘夷論
1、ペリー黒船の来航――日本に大きな打撃を与えた。里正ら村落指導者は黒船を国難として受け止めた。
2、武士は忠義の大義に生きることを本質としてきたが、農民にとっては親を大切にする孝が唯一の倫理である。
3、この燃えあがる尊王攘夷論は小島の蔵書の中にもその片鱗を見ることができる。この蔵書を見ると水戸学関係と頼山陽の著書をほとんど揃えていることがわかる。水戸学の影響は同じ関東の地にあるだけ大きい。
4、小島は熱烈な尊王攘夷論者であり、近藤、土方と同じ公武合体派であることが分かる。
五、御一新への待望
色川大吉編『民衆文化の源流』、1980年、平凡社教育センター。
第二章 儒教による村の御一新運動
一 御一新への村落指導者の結集
1、里正らは長年の伝統によって培われた佐幕的心情は拭いきれないものがあり、とくに新撰組を終始支援し続けた小島は、徳川幕府が崩壊すると愛惜をもっていた。
2、その反面、徳川幕府の崩壊により新しい明治政府への御一新の夜明けを望む期待感もあった。
二 村体制の御一新
四 民衆の儒教開化を目指す小野郷学の教育運動。
1、小野郷学――趣意書、二つに要約することができる。――一つ、王化の波及による尊王論の徹底であり、二つは、風紀風俗の紊乱(びんらん)を正すための儒学を教えることにより民衆を開化に導くことにあった。――青少年を中心とした成人教育であることが分かる――淳化と教化を目指す儒教主義による民衆の教育運動であった。
2、儒教による村の御一新運動――村落指導者が協力し、よく郷党の結集と靭帯を生みだした。この村落のエネルギーは次の文明開化政の実施に引き継がれ、それが基盤となり明治十年代の自由民権運動と展開していった。
二 中小教院設立と洋教拒絶
1、明治政府――神道を強化することにより天皇の神格化――国民教化――明治元年、神仏分離が行われた。
2、小野路村寄場組合の傘下の村落は儒教の影響が強く、国学の浸透は比較的に少なかった。
3、明治五年、教導職が設けられ――中教院・小教院と設立し、神官、僧侶、民間人が一体となって国民教化の推進をはかった。――民費負担の増大を嫌い反対。
4、横浜を拠点にしてキリスト教が各地方へ波及。
第四章、横浜からの文明開化の波と自由民権への覚醒
一 文明開化の港、横浜
二、開明県令による地方民会の育成
三、地租改正紛議による農民の権利意識の育成
四、生糸産業の盛況による国際感覚の形成
六、横浜ジャーナリズムによる民衆輿論の形成
封建制度の崩壊により、情報、交通圏は拡大され、身分制度の撤廃により四民平等の世界となり、民衆は自由に自分の意見を言える言論の文明開化の時代を迎えた。――「横浜毎日新聞」
第五章 漢詩文学による地方文人意識の形成
二 江戸漢詩人の影響による豪農層の漢詩文学熱
三 豪農民権派の源流
A、学習結社責善会の設立の目的は「修身斉家ノ基礎ヲ固フシ」とあるように儒教主義を基底にもつ豪農による学習結社である。
B、儒教による開化と治国平天下 儒教主義者小島為政の正統をつぐ、責善会の会員は佐藤荘作と小島守政である。この二人は小島の道統をつぎ明治十年代に自由民権運動の風潮が高まる中で、その西欧化の波に反発し、儒教主義の反文明意識を貫き通した。
『外的世界と内的世界』 湯川秀樹 岩波書店
天地(あめつち)は逆旅なるかも鳥も人もいづこよりか来ていづこにか去る。
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