【田中正造】
政治家。栃木県の人。1890年(明治23)以来衆議院議員に当選。足尾鉱山の公害問題解決に努力。1901年直訴。以後終生治水問題に意を用いた。(1841~1913)
『田中正造の生涯』の著者・林竹二は、その「まえがき」をこのようなことばで語りはじめます。
「1962年に、「思想の科学」が、没後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にはほとんど忘れられた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題が喧しくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも依然として知られざる人である。田中正造は、小説家や劇作家には好個の題材であるのに、その研究者は乏しい。これはどうしたことだろうか」。
林竹二は、その著『田中正造の生涯』を書き終えたあとも、その理由を明言しているようには思われません。田中正一著『田中正造 その思想と現代的意義』によると、田中正造は、若い時から晩年に至るまで、「自分が無学で愚であることを繰り返し」語っていたといいます。田中正造は、「無学であるがゆえによく学ぶことができる、愚であるがゆえによく真実に迫ることができる、という弁証法」(同書)を体得していたといわれます。
その田中正造は、明治36年3月、谷中村に入る前の年、その日記に、「大学廃すべし。腐敗の淵藪なり。」と記していたといいます。
「帝国大学の学士中、おおくは忍耐力の一つは卒業せり。
恥を忍ぶ、
侮辱を忍ぶ、
惻隠の心を失うを忍ぶ。
醜汚を忍ぶ、
人の財を奪うを忍び、
人を殺すを忍ぶ。
同胞兄弟に破廉恥を為すを忍び、
国の滅びるを忍ぶ。
この学生はこの忍耐力を卒業せり。
地方教育、学生の精神を腐らす。中央の大学もまた同じ。
学ばざるにしかず」。
権力を仰ぎ、権力に服従し、権力のおもんぱかって、その学識を披露する、そして、「しえたげられる者の涙」を理解することなく、「惻隠の心」(あわれみのこころ)を棄ててかえりみない、当時の中産階級・知識階級に対する、激しい田中正造の批判のことばではないかと思います。
「見よ、しえたげられる者の涙を。
彼らを慰める者はない。
しえたげる者の手には権力がある。」
ドイツのワイマール憲法下の刑法を起草した法学者・ラートブルフが、『旧約聖書』という岩から切り出したこの聖書のことばを、その生涯をかけて生き抜いた基督者として、田中正造の名をあげるのはけっして間違いではないでしょう。「しえたげられる」谷中村の農民の涙をみて、その涙の原因たる「しえたげる」国家(中央政府・地方行政)の手の中にある「権力」の不正を文字通りいのちをかけて追究した田中正造の名をあげずして、他の誰の名をあげることができるのでしょう。
田中正造を支えた思想は、皇国史観でも、唯物史観でもないのです。「非常・民」であることを徹底的に棄てて、谷中村の農民と共に「常・民」として共に生きようとした背景にあったものは、近世幕藩体制下で、身につけていった「百姓」としての自信と誇りではなかったかと思われます。
『部落学序説』の筆者の目からみると、すぐれた学的研究の成果である、林竹二著『田中正造の生涯』をてがかりに、大胆に読み直しをしながら、「百姓」として、「非常・民」から「常・民」への精神的葛藤(「苦学」)を経て、徹底的に、「公義」・「正義」を説いていった田中正造の精神世界を振り返ってみたいと思います。
スイスの哲学者・アミエルは、その日記のなかでこのように記しています。
「人生の肝要な事柄に関して我々は常に孤独である。我々の本当の歴史はいつになっても他の人からは殆ど読み解かれることがない。この悲劇の最も優れた部分は独白、むしろ神と我々の良心と我々との間に交わされる内密の科白のやりとりである。涙、悲しみ、あてはずれ、侮辱、悪い考へ、いい考へ、決心、不安心、熟慮、すべて我々の秘密である。その殆ど全部は、たとひ我々がそれを話そうとしても書いて見ても、通じようがないし伝えることが出来ない。我々自身の一番大切なところは決して現れることがない。親密な間柄に於ても出口を見出さない。我々の意識にも確かに一部分しか出て来ない。殆ど祈りのうちにしか活動を始めない。恐らく神によってしか拾い上げられないであろう。というのは我々の過去は我々にとって永劫に他人だからである・・・」。
しかし、アミエルは続けて、このように語ります。
「しかし不明なものがあるのは、やがてなくなる為なのである。」、と。
田中正造の精神世界も、アミエルのいう、人生の孤独と秘密に満ちています。田中正造自身も、解くことができなかった人生の秘密に満ちています。しかし、もしかしたら、その残された田中正造の記録(日記)をひもとけば、その秘密・謎をときあかすことができるかもしれない・・・のです。
それで、『田中正造全集』の全20巻のうち、第1巻(自伝)と第9~13巻(日記)を入手することにしました。
林竹二著『田中正造の生涯』の構成は以下の通りです。
目次
まえがき
序章 田中正造の遺跡を訪ねて
第1章 政治家田中正造の形成過程
第2章 田中正造の議会の戦い
第3章 谷中村問題
第4章 田中正造の谷中の戦い
第5章 砕けたる天地の間に
田中正造略年譜
「第1章 政治家田中正造の形成過程」は、更に次の節に分かれています。
1 田中正造の生まれた家
2 村の小さい政治
3 政治への発心
4 鉱毒問題との出会い
5 明治の民権運動がたどったみじめな歴史
6 鉱毒問題小史
『部落学序説』の筆者が特に関心を持つのは、第1章の「1 田中正造の生まれた家」と「2 村の小さい政治」です。
林竹二によると、田中正造は、1841(天保12)年11月3日、「下野国安蘇郡小中村(現在佐野市小中)」に生まれました。父の名は、庄造、母の名は、サキ。庄造は、その長男として生まれ、幼名として、兼三郎と呼ばれました。
林竹二著『田中正造の生涯』には、「小中村の翁の生家(改修前のもの)」と題された写真が掲載されています。下のカラー写真は、インターネット上で検索したもので、渡良瀬短信-歴史と自然に掲載されているものです。
林竹二は、田中正造の生家を訪ねたときの感想をこのように記しています。
「田中正造の遺跡巡礼をしたとき、私は、はじめて「翁」の生家を見ることができた。その印象は、それがいかにも小さいということであった。庭田家などとはくらべものにならない。父の隠居所にあてられた、門に接した別棟の二階家があり、裏に倉もあるがこれも小さかった。たくさんの年貢米が運びこまれる情景などを思い描く余地などまったくない屋敷の構えで、到底豪農などいうことばとは無縁の、ささやかな家のたたずまいで、家族の農耕の営みによって生きている、まごう方なき「下野の百姓」の家であった」。
林竹二は、明治39年に田中正造宅を訪ねた木下尚江の印象、「代々の名主の家の建物にしては小さい。・・・祖父の代までの田中家の生活は、嘘のように質素なものであった・・・」ということばを引き合いに出しながら、林竹二が自分の目でみた田中正造の生家の印象を裏付けていますが、林竹二は、ここでものごとを片づけず、なぜなのか、その理由を尋ねます。
そして、「私は翁の生家のささやかなたたずまいをみて、一つ発見したような気がした。」といいます。そして、このように推測します。
「田中家から出てはじめて名主となった祖父正造は気性の激しい人であったらしい。おそらく家の格式や財産によってではなく、その能力が小中村の百姓の信望を集めて彼は名主に選ばれたのであったろう。父は温厚な人であったが、割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである」。
幕末期の一時期、庄屋であった田中家の家の建物が、林竹二には、「普通の農家としても中以下の規模のように感じ」られたのは、林竹二が言及しているとおり、田中家が、近世幕藩体制下300年間を通じて、藩主から名主の役を与えられ代々に渡ってその富を蓄積してきた、いわゆる「豪農」としての「名主」ではなかったことを意味します。
祖父・正造のとき「名主」の役を与えられ、父・庄造のとき、「名主のたばね役」である「割元」の役に「昇進」したそうですが、わずか2、3代「名主」の役を担ってきただけの田中家と、近世幕藩体制下を通じて代々「名主」の役を担ってきた他の「名主」とくらべてもほとんど意味がないと思われます。
この「名主」ということばは、東日本で一般的に用いられていることばですが、西日本では「庄屋」と呼ばれています。『部落学序説』の筆者が棲息している旧長州藩領では、「庄屋」の規模は実にまちまちです。「庄屋」は、すべての村(自然村)に配置されました。平野にひろがる村の「庄屋」もいれば、山間部の少数の村の「庄屋」もいます。「庄屋」の家の建物がどのような規模のものであるかは、その村の「百姓」人口で決まります。通常、「庄屋」の倉は、年貢米の一時保管場所の機能も果たしていましたが、その蔵の大きさは、その村の「百姓」人口によって決まります。下野国安蘇郡小中村がどのような村であったのか、地理的・社会的・歴史的条件についてまったく知識をもちあわせていない『部落学序説』の筆者としては、即断しかねますが、さまざまな資料を駆使して総合的に判断しないと大切なことを見逃してしまいます。
田中正造の父・庄造が、「名主のたばね役」を担っていたというのは、林竹二が、「割元(名主のたばね役)として下野の六角領7ヶ村のたばねをするだけの器量をそなえていた。田中家が苗字帯刀を許されたのは、父が割元に昇進してからのことである。」と指摘するのは、当然すぎるほど当然です。大庄屋は、名誉職や年功序列で担うことができるほど軽佻浮薄な「役」ではありません。田中正造の父・庄造は、当時、彼をおいて他に「大庄屋」(「名主のたばね役」)を担える人物はいないと信望を集めていたのでしょう。
「田中中家が苗字帯刀を許された」のも、名誉職としてではなく、「下野の六角領7ヶ村」の治安を担うだけの実力を持っていたからでしょう。「大庄屋」としての権限は強大です。なにか、殺人・強盗・火付などの「非常」に遭遇したときには、「大庄屋」は、代官所に指揮のもと、村役人や村番人を動員して、犯人の探索・捕亡・糾弾に従事することになるのですから・・・。年貢の算術・経済に明るいだけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての知識・技術にも長けていなければならないからです。置かれた時代と状況によっては、「庄屋」が「大庄屋」に抜擢されることもあり得るのです。
田中正造という人物をはかるには、その生家の規模の大きさではなく、近世から近代への過渡期に、田中家に担わされた「職務」(非常民としての職務)の大きさで判断すべきです。
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