2010年12月9日木曜日

『弁名』「性・情・才」七則

『弁名』「性・情・才」七則

一.序

  徂徠の学説は、まだはっきり把握して、十分に理解していないということを始めに断っておきたい。

まず、徂徠の文章が読みにくいと思う。徂徠の抜群の漢文修養、そして優れる博引旁証に臨んで、自分の勉強不足を強く感じた。それに加えて、「道は不可知」、或いは「道は知りきれない」ということを唱える徂徠の学説は、明瞭な構造が欠けているようである。さらに、失って暗くなってしまった「先王の道」を探って、改めて明らかにすることを目的とし、徂徠は恐らく演繹の方法を排除し、「古文辞學」を道具とし、一種の考証学の方法を使っているからであろう。

つまり、徂徠の文章は、少し不親切だと感じている。その理由を、もう一つ挙げると、徂徠の勝手気ままに他人を批判するような態度である。

徂徠は、常に宋儒や仁斎が「古文辞を知らざる」と批判して、一方、「古文」の意味の多岐性を認め、「後世の文を読むに慣るる者は、止だ一条の路径を見る。古文辞を熟読する者は、毎に数十の路径有り[1]という発言をした。そうであれば、徂徠の「古文辞学」の方法論は、自分の学説に逆に噛みつく危険性を孕んでいるのではないかと思う。

また、宋儒たちが、古注のような古典を読まず、古文辞の意味を知らなかったとは、少し有り得ないと思う。宋儒たちは、「古文辞を知らざる」わけではなく、多くの古義を選別することを通じて、先王と孔子の本意に一番近い注釈をつけていたことは、主張してもよいであろう。また、徂徠の古文辞研究に、「断章取義」という特徴があることは、最近の研究者たちに指摘されてきた。[2]

なお、徂徠の批判態度は、誠実とは言えないだろう。徂徠は、宋学に従って、仁斎を批判したことはあった。「弁道」「弁名」においては、基本的に両者ともに否定していた。ただ、ある時は、仁斎の学説を借りて宋儒を批判して、ある時は、宋儒の観点を自分のものにして、論説を進めていく。一層、自分の論証する方便のために、敵と見なされた老荘の考えさえも引用した[3]

宋儒の学説は、「先王の道」と比べてみると、勿論多くの相違点が存在している。ただ、(一種の時代錯誤であるかもしれないが)現在の視角からみれば、宋学は、宋代の儒者たちが「先王の道」、あるいは「原始的な儒教」を発展して、豊富化させた結果であったと考えてもよいだろう。徂徠は、一体どうして必死に宋学を「先王の道」と対立させていたのか?

徂徠が、唯一の「先王の道」の得悟者と自任して、そして、聖人に対する絶対の信仰に据え、宋儒と仁斎に対して「不寛容」な批判を打ち出したのは、「異端審問」のような感じがしている。

二.宋儒の「体用論」と徂徠の「一体論」

朱子学、あるいは宋学、基本的に弁証的な「体用論」[4]という枠組によって展開していた。朱子は、あるいは宋儒、宇宙万物の本源とその動きの規律、「物質ではない存在」すなわち太極と理気の運動というような「本体論」を立てて、さらに人生論と繋げようとしていた。それは、極めて莫大な、複雑な体系構造をもつので、簡単に捉えようとするならば、往々にして、一をあげて万を漏らすような事態になってしまう。

朱子が「道」を論じる一箇所を挙げてみれば、「朱子が言う、道はすなわち天、人、性、命の理であり、事物の当然の則であり、修身斉家治国平天下の術である、と」[5]、「道」は少なくとも三つのレベルに存在していると分かる。徂徠が「道」を「先王の道」に限定して、「民を安んずる」という治国の術としての「礼楽」に要約したのは、ある意味で、朱子の道の第三レベルの理解と合致しているのではないかと思う。ただ、「治国の術」については、「内に転向する」ということを特徴にした朱熹の力点は「格物致知」という「自律」的な修身の営みに置かれ、それと反して、徂徠の力点は「先王の礼楽」という「他律」的な物事に置かれた。

朱子は、「道とは、体、用を兼ねて、隠、費を該ねて言う」と主張した。比べて見ると、徂徠は「道とは礼楽」、「道なる精粗となく本末となく一以てこれを貫くことを」と解した。たが、「徳行」、「言語」、「政事」、「文学」というような四種の科目[6]は、そもそも『論語』に重んぜられ、孔子の道についての教えであったと見なされるが、徂徠はただ「礼楽」(政事と読み換える)という一端によって、孔子の教えの全体を総括しようとすれば、非常に偏っていたのではないかと思う。さらに、六経とは、そもそも儒家一家専有的な経典ではなく、むしろ先秦各学派の共有の経典であった。

『漢書・藝文志・諸子略』によれば、「諸子十家……各々その長ける所を推し上げ、智恵と考慮を窮めて、その意旨を明らかにしようとする。蔽われるところ(道理に暗い)と短い所(短所)があっても、その要旨を合わせれば、亦六経のわかれと末流である(と分かる)」[7]

だから、儒教というものの成立は、孔子、孟子を飛び越し、六経まで遡っては、妥協ではないだろうか。また、儒教の礼楽の伝来、そして真面目に扱ったのは、恐らく僅かに数百年の歴史があるだけである。「道」=「先王の道」=「礼楽」を唱えていた徂徠にとっては、それ以前の日本の歴史はどういうようなものだろうか?

三.担当箇所の要約

1. 「性」について徂徠の考え

性――生の質――宋儒のいわゆる気質なりというように捉え、「気質の性」を認めるが、「本然の性」の存在を拒否する。

Why---Because

A「人の性は万品にして……得て変ずべからず」[8]、一人一人の性が違っているし、その性を変えようとしても不可能。

B「『人みな以て堯舜たるべし』という者も、また聖人は学んで至るべしと謂うに非ず」[9]。聖人の性と人性との間に乗り越えられない壁がある。

C 「本然の性」という説は、学術的に成立できない。[10]

2. 「性善移論」とその移った後の結果

A「教」と「習」の重要性の強調。「先王の教え、詩書礼楽は、譬へば和風甘雨の万物を長養するがごとし。」[11]「善に習えばすなわち善、悪に習えばすなわち悪なり。」[12]

B徂徠の「君子」と「民」に与える解説からみれば、以下のように見られる。「君子と民とは、そのいまだ学ばざるにあたりては、甚だしくは相遠からず、先王の道に習いて以て君子の徳を成すに及んで、しかるのちその民における霄壌の異あるを見ることを言うのみ。」[13]

そうすれば、人間は完全に「教え」と「習い」によって、決められるようである。「性善移論」と「性不変論」とは如何にうまく調和できるのか、問題になった。

C なお人の先王の教えを得て、以てそのを成し、以て六官・九官の用に供する[14]

3. 「復性説」にたいする批判

徂徠は、宋儒の「復性説」が「嬰孩の初に返る」とするようであるが、宋儒は、実は「気質の性を除いて、本然の性に復帰すること」と説いた。徂徠は、「本然の性」を否定した以上は、「本然の性」に基づいた「復帰説」を批判するのは、意味がないと思う。

4. 心情の弁、性や欲との関係

「情」…「喜・怒・哀・楽の心、思慮を待たずして発する者にして、おのおの性を以て殊なるなり。」

「大抵、心・情の分は、その思慮する所の者を以て心となし、思慮に渉らざる者を以て情となす。」

「凡そ人の性はみな欲する所あり、しかうして思慮に渉れば、即ち或いは良くその性を忍ぶ。思慮に渉らざれば、すなわちその性の欲する所あり。」――「心」、性を忍ぶ。「情」、性の欲する所。

「思慮を待たずして発する」、そして「思慮」に渉れるかどうかによって「心」と「情」を弁えるというような分析は、『孟子』・盡心篇上の「所不慮而知者、其良知也」(慮らずして知る所の者は、其の良知なり)からの影響を受けていたと思われる。ただ、徂徠が「心」、「情」、「性」、「欲」に対して、一体どういうような枠組を与えるのか、よく分からない。

四.結びにかえて

 今回、担当した箇所を読む限り、徂徠は宋儒、そして仁斎の学説にたいして批判する火力は意外に弱くなってしまったと感じる。「性・情・才」というような概念に対する修正は、多くは「古文辞」の考察によって成し遂げられるのではなくて、孟子が他人を説得するための発言とか[15]、宋儒が誤って「性善説」と読んだなどというような論拠だけを出してきた。

 もうひとつ不思議なことは、徂徠は「中和の気」[16]をめぐって議論を発し、また「已発」、「未発」を踏まえて論説したことである。「道」の正当性は、宇宙万物(勿論人間を含み)の本源を究めることによって見つけようという宋儒のやり方とちがって、徂徠は聖人の方に道の正当性を求めようとした。だから、ここで徂徠が人間の内面に向けて説いた論説は、興味深い。




[1] 板東さんが521日に発表されたレジメからの引用。

[2] 相原耕作、高山大毅の研究を参照。「徂徠の『論語徴』は、一見、具体的な文脈を重視する注釈のように見えるが、文脈重視のスタイルは、むしろ抽象的・一般的議論を批判し、自在な言語操作によって新たな解釈を導き出すための戦略的な足場として機能していると考えられる。」『助字と徂徠学を中心とする江戸時代の言語論と政治思想の研究・概要』、相原耕作、http://kaken.nii.ac.jp/d/p/15730078

[3] 「義八則」一、p77。「また老子のいわゆる『道を失いてしかるのち徳、徳を失いてしかるのち仁、仁を失いてしかるのち義、義を失いてしかるのち礼』のごときは、これ聖人の道を譏るといへども、また、古人の、古言を以てこれを言いしことを見るべし。その意は仁・義・礼を以て先王の造る所となし、自然の道に非ずとなす。故にこの言あるのみ。」

[4] 簡略にすれば、以下のような表は描かれるが、しかし、朱子學の「体用論」には「体用一源」ということ見落としてはならない。

 理

 形而上

 道

 未発

 中

 静

 気

 形而下

 器

 已発

 和

 動

[5] 『朱子文集』巻67、周礼三徳説。

[6] 『論語』先進篇を参照。

[7] 「諸子十家……各推所長,窮知究慮,以明其指,雖有蔽短,合其要歸,亦六經之支與流裔。」

[8]  P137.

[9] P138.また、この文句の意味はよく分からない。徂徠は、人々はみな「堯舜」になれるということを賛成しているか?

[10] 徂徠の論証はよく分からない。徂徠はまず「本然の性なる者は、ただこれを天に属すべくして、人に属すべからざるなり」ということを論証せずに、判断した。続いては、徂徠は「本然の性」の説によって、禽獣と人の区別をうまく説明できないように理解した。しかし、徂徠は、人間社会の中には、共通的な「本然の性」の存在を取り消したら、一層禽獣と人の区別を弁別できなくなってしまうではないかと思う。

[11] P137

[12] P137

[13] P138

[14] P137

[15]「内外を争い門戸を立てるに出づ」。「人を服せしめる」。

[16] 伝に曰く、「人は天地の中を受けて以て生る」。「然れどもその動きの偏勝して節に中らざるときは、すなわち必ず、中和の気を損なって、以てその恒性を失うに至る」。

0 件のコメント:

コメントを投稿