2011年7月4日月曜日

『新編 明治精神史』

『新編 明治精神史』
はしがき
 1、なぜ「精神史」を取り上げて「思想史」としなかったのか。それは当時の私には、すでにでき上った作品としてのわが国の「思想」には興味がなく、いまなお、混沌と生きていて、たえず奔流したり逆流したり、まったく未解決な――私たちの世代には忘れ難い屈辱をあたえた――複雑な日本の「精神」の歴史が問題であったからだ。

2、この本の三部構成
A,いわゆるエリートでも思想家でもない普通の民衆の精神の動態を、その全体性のまま捉えてみようという新しい試みである。――一般の日本人の思想方法や精神構造を明らかにするために。

B、日本のエリートたちの思想の「歴史的展開」を取り扱った。とくに彼らが第一部の登場人物と違って、深くモダニズムの思想方法にとらわれてゆく過程の分析に力を注いだ。その日本型モダニズムの運命と、その典型例をいくつかとりあげた。反面、日本のエリートのもう一つのタイプ、反モダニズムの発想方法を持つ思想家の問題を、そられと対立させて構成してみた。

C、「方法と総括」、私の精神史と思想史への考え方や研究方法について述べ。

3、秩父の蜂起農民たちの心理に注目する動機、最下層の底辺民衆の意識に注目し、文字を操ることをしない、書くことをしないで一生を終える大多数の民衆を、彼らによって代表させることはできない。

4、日本の大地を、深く掘り続けることによって、中央史家には見えない地下水脈が縦横に地底にのびているさまを見出した。
私のこの本は、明治の民衆の中にそれを見出し、エリートのたどった運命と合わせて、その歴史的意味を考察しようとするものである。


一、多摩の夜明け
1. 北村透谷――独創的な社会思想の原質を作り出した「希望の故郷」
2. 日本人民の思想の地下水を二層にもわたって掘りあて、多くの民衆群像のなかに二人の象徴的人物を掘りだすことに成功した。その水脈の中層の一シンボルが、千葉卓三郎であり、より深層のそれが、須長漣造であった。――透谷の思想の原質は、この二つの地下水脈を刺し貫いたところに形成される。
3. こうしたさすらいの変革者が、数万、数十万人、底辺にあふれて、日本の真の近代化を推し進める底力になった。
4. 日本には、もともと民主主義を生み出しうるような、自生の根などなかったのではないか。
5. べラー、日本は「タテ社会」の国であり、超越神の信仰もなく、宗教革命を経験したことのない日本人に、主体的個人の自律性などを期待できるはずはない。
6. 人間の歴史は測りがたい。1960年代の新たな民衆史研究の高揚と、思想の地下水への着目は、彼らの志をいつまでも土蔵の片隅に寝らせてはおかなかった。日本の内なる地下水脈の視覚から以外に、天皇制、ひいては日本人の精神の歴史を相対化できるいかなる方法が見出しえようか。
7. 勿論これは、土着主義とは区別されなくてはならない。近代主義を撃つあまり、閉ざされた史観に後退してはならない。世界の諸国民の歴史との、比較史的な研究の努力を参酌しつつ 
8. 北村透谷、明治元年生まれ、日清戦争直前に自殺した。「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつつあるない。……革命に有らず、移動なり」――「欧化」「文明」の裏に、つねに「破壊」を見、「繁栄」の内に、同時に「滅び」を指摘し続けてきたかれは、いま、この経済大国日本の現状をなんと評するであろう。
9. 厖大の資料のなかから、自由党と困民党、旦那衆の党と底辺民衆の党との間の、おどろくべき矛盾、対立、分離、雁行の実相を発見し、いっきょに自由民権の偶像が崩壊するような感銘を受けた。

二、一地方の人間発掘から
10. ここに十数人の青年たちがいる。普通の百姓であり、いわゆる土に生まれて土に帰っていった農民の子弟である。
11. 維新は一群の下級武士と一部の豪農商の欲望の解放を遂げはしたが、なお草深い農山村に、不安と疑いの目を開いていた多くの民衆を解放しはしなかった。
三、自由民権運動の地下水を汲むもの
12. 自由民権運動は僅か十年間で挫折した。そのため、民権思想も未成熟のうちに退潮し、変質し、やがて天皇制の思想の中に吸収されていった。
13. 常識的に考えてみて、十年間にわたり数百万国民を巻き込んだあれだけの大運動が、あとになにも残さず消え去ってしまうなどということがありうるであろうか?あるまい、とすると、自由民権運動の伝統は、思想の地下水としてどこか見えない深層に流れていて、その後の日本の歴史の発展に機能しているに違いない。
14.


P312
十一、明治豪農の精神構造――細野喜代四朗と須長漣造

1. 細野喜代四朗論――代表的な多摩の自由民権家の精神的な亀裂がある。かれに象徴される豪農の精神、思想が、いかに農民のそれとの間に深い断層を包蔵していたかを示す絶好の事例がある。
2. 農民演説家の生誕――東洋的革命家像
3. 細野喜代四朗、(1854)生まれ、名主の長男、1860から1870まで、寺子屋で学習した。儒学と剣術が主であった。上京して著名な儒者についた。かれの儒学の教養はなかなかに深い。
4. P316、われわれ歴史家は、ともすれば人間をその社会的活動によってのみ評価しようとする偏りがある。細野喜代四朗の場合にも、その活躍を細かに記したかれ自身のメモがあるだけに、いっそうそうした誘惑におちいりやすい。しかし、かれには豪農としてのもうひとつの面、長い伝統の中で培われてきた静寂な内面生活の世界があるのだ。それはかれの地主的な私生活に覆われていて、容易には覗き得ない。
5. 伝統的な美意識と儒学の意味
6. 細野に代表される当時の豪農は、さまざまな支配階級的また民衆的思想の諸要因を内蔵していた。儒教倫理、武士道、仏教思想、あるいは神道や山岳信仰から富士講(不二道)や丸山教などの民衆宗教、階級社会での心境鍛錬を旨とした道徳教の数々、心学や報徳教、産土神や農業神などへの俗信、はては西欧伝来の開化思想、権利意識、文明論など、混沌たる思想の小宇宙を形成していた。……しかし、その多様雑多な思惟の中で、かれの基軸をなしていたものは、古典的な儒教のそれではなかったかと私は推察している。
7. かれの中国古代思想への傾倒を証明している。
8. 大胆にいえば、民権思想最高揚期の細野の政治の理想像は、依然として非西欧のものではなかったか。細野の内面に即して見てゆくと、儒学は豪農層の中に下降して、今や新鮮の生命を恢復したかのように思える。ここには「天」と「理義」との合理論が再生されているし、それが新しい時代の政治変革の課題に応じられるように復活、へんようされている。古儒学の理想は、堯舜の愛民の思想で、帝王絶対化ではなく、無能な帝王の退位交替を当然の「天命」とする易姓革命の思想、……ユートピア思想として再生され、そこに欧米からの輸入革命思想=天賦人権論(近代自然法思想)や君民共治論などが補強資料として摂取、癒着させられていたように思われる。
9. その日常生活と精神伝統――明治の豪農の教養(1)
10. 東洋の賢人たちの、生活のひとつの夢であった「晴耕雨読」

第二部 歴史的展開
1. 豪農民権への展開――徳富蘇峰の思想形成
2. 徳富蘇峰、(文久三年、1863年~昭和三十二年、1957年)著書150種。『近世日本国民史』110巻、『蘇峰叢書』12巻。著作の山は近代百年の歴史と関連して、われわれの前に未使用の資料として投げだされてある。
3. 大久保利通(おおくぼとしみち)、西園寺公望(さいおんじきんもち)
4. 徳富、活動の時期が非常に長く、著書も厖大な上、基本史料(日記、書簡、草稿など)が充分に公開されていない。
5. 徳富の四期、
A、幼年期から明治十九年に、『将来之日本』、第一期<思想形成時代>
B、いわゆる輝かしき成功の第二期<『国民之友』時代>
C、日清戦争後、松隈内閣に参加して「変節」を非難され、日露戦争と通じて積極的な政府支持に転じ、やがて大正デモクラシー運動の中で国民から投石を受けながら、桂太郎(かつらたろう)の死とともに政界を隠退する、政治家としての第三時期。
D、大正二年より満州事変開始までの、文筆活動にもどり、『近世日本国民史』を執筆しつつ、皇室中心主義者として政府の戦争政策を鼓舞してきた晩年の第四期。
(戦後の十二年間の隠栖時代は若干の著作を除いて、公人としては、既になきに等しい存在であったから一応捨象する)
6. 大久保利謙の見解(明治20年代の思想家として)、雪嶺(三宅雪嶺 みやけせつれい)、陸羯南(くがかつなん)、蘇峰の三者を論じた。蘇峰――「下からの産業ブルジョアジーの思想的代表者」「初期蘇峰の平民主義は『将来之日本』によってわかるように日本のブルジョア的発展を反映するブルジョア民主主義であった」。
7. 丸山真男「下からの平民主義」
8. 家永三郎、蘇峰を近代思想史上に位置づけるために、福沢諭吉と蘇峰との関係を調べ、「徳富が福沢精神の継承者であり、民友社の思想運動が福沢イズムの歴史的展開に外ならない、といふ命題」「徳富等民友社同人の所謂平民主義とは、正しく福沢の啓蒙主義の歴史的継承者乃至発展者に外ならない」――系譜史観、日本の近代思想史の傾向として、明治初年代、十年代の段階を福沢諭吉や植木枝盛らの啓蒙主義。二十年代の段階を徳富蘇峰、三宅雪嶺らの平民主義、国粋主義で代表させ、三十年代の段階を幸徳秋水、安部磯雄らの初期社会主義で代表させ
9. 蘇峰の「変節」の問題がある。思想史的にはたして変節といえるかどうか改めて検討されなくてはならない。

実学党の世界
10. 徳富の祖父――庄屋兼代官
11. 徳富の父――一敬、九州全体に名のきこえた経世家であり、何よりも横井小楠の高弟として知られていた。小楠らの政治運動を財政的に支えたのは豪農たちのひとりであった。
12. 横井小楠(1890~69)が東の佐久間象山とならぶ幕末の開国論者として、先覚者であったことはいうまでもない。
13. 横井派実学党の政治運動や教育活動を支えていた。横井小楠の原理の実践「堯舜孔子の道を明らかにして、西洋器械の術を尽す」
14. 竹崎茶堂、昼は熊本洋学校で東洋道徳を講じ、日新堂に帰ればアメリカの最新式農法や洋式生活を実行して人々を驚かし、夜は青年たちを集めて「大学」や『四書』『五経』を教授するという、和魂洋才ぶりを発揮していたのであった。
15. 矢島家が、竹崎、徳富、横井の三家を一つの血縁に結びあわした婚姻関係のカナメとなったのである。
16. 『四書』『五経』『左伝』『史記』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』
17. 蘇峰の漢学の教養は非常に深い。かれが儒教主義をもっともはげしく攻撃した少壮の時期にも、この漢学の教養はかれに幸いしている。(かれは、最初は横井小楠が批判した朱子学を攻撃の目標とし、やがて小楠自身が立脚していた実学的な儒学をも批判の対象としていった。しかし、かれが果たして、この思惟様式を克服することに成功したがどうかは疑わしい。)
18. 実学党「明尧舜孔子之道,尽西洋器械之术,何止富国,何止强兵,布大义于四海而已」
19. 父たちへの第一叛逆、第二叛逆

三、日本近代化の構造――典型的日本モダニズムの一例

20. 『新日本之青年』――本書の主眼は、維新後、学問の性質が根本的に変わり、万事が近代化(「泰西化」)の方法にむかってきた今日、復古主義(論孟、靖献遺言、古事記、今義解)、折衷主義(東洋道徳、西洋技術に対する断絶と拒否はかなり徹底的のように見える。)、偏知主義(福沢諭吉、生活主義、物質主義、大勢追随)の三つの現象が強まり、いずれも社会の進歩を妨げ、あるいは、有為な青年を思想的な混乱に陥れている。
四、三つの未来モデル――中江兆民の方法
21. 洋学紳士と東洋豪傑君の構造
22. 『三酔経綸問答』(明治25年)、紳士君が滔々たる民主化徹底論の口火を切る。露骨なアジア侵略策を説く豪傑君
23. 近代主義と国粋主義批判



P472
 豪農層意識の変遷
 
 我が国の豪農層は、幕末期に……村落支配層として登場してくる。一般には儒学(地域によっては国学、蘭学、心学)などの教養をもち……やがて、尊王攘夷運動が浸透しはじめると、かれらの中の先駆者は、草莽の志士として思想的な飛躍をとげ、維新の政争に参加していったし、後に残された彼ら一般も、下からの世直し騒動などの突き上げの中で、危機意識を深め、しだいに局地的な地主=村役人の意識から、普遍的な一国民的意識へと開眼してゆく。


P474
基底の視角から――方法試論
1. エリートたちの視座
2. 基底の視角
3.

六、明治二十年代の思想・文化――西欧派と国粋派
志賀重昂(1863~)
徳富VS志賀。平民の欧化主義VS国粋保存旨義

蘇峰が、わが国の思想水脈から離れたところに、かれの理論を構築しようとしたためであった。こうした理論物神化的な考え方が、大勢順応主義と表裏の関係をもつ以上、かれが「変節」する内因はすでに存在していたともいえる。他方、国粋派は、個別伝統のなかに価値基軸を置く伝統主義的発想に執着したために、かえって一定の現実性、思想的持続性は持ちえたが、反面、近代的思惟に対しては採長補短な態度から抜けでることができなかった。

勿論、蘇峰も「反儒教主義」を徹底させ

明治十年代のナショナリズムが、こうして二十年代の国粋主義、平民主義等の媒介をへて、天皇制権力の「国家主義」を支える力に転化されていった一ステップと見ることはできないだろうか?

これを要約すれば、明治十年代の自由民権運動(とくに豪農民権)の反政府=在野精神は、二十年代の平民主義、国粋主義のこの「虚像」に導かれて、内から、なしくずしに、天皇制国家主義にと転入していった。この歴史的な成功を示した最初の指標が、日清戦争による「官民和合・一致協力」であり、三国干渉による「臥薪嘗胆」であった。そして、それらを踏み台として日本帝国は侵略主義へ積極的に突入できたのであった。

4、分裂の時代へ
1. 明治20年代は、圧倒的な西欧文明の影響下にあった。
2. 日清戦争後、思想・文化の状況は、「分裂と孤立の時代」をむかえた。
3. 内村鑑三のように自分こそ真の「愛国者」だと確信し、「詐欺師に類する」支配階級に立ち向かい、その市民主義、民主主義を固く守って妥協しようとしなかった人々は、ここでは資本主義社会からの二重の疎外と、非国民との非難を受けねばならなかった。一方、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)のようにこの時、権力の側に立って国家主義、愛国主義を呼号したものは、避けがたく反民主主義的となり、帝国主義の代弁者と化し、自我との矛盾に悩まざるをえなくなる。


7 明治三十年代の思想・文化――明治精神史の断層
1. 国はんぷ【頒布】民教化の三十年
2. 明治新政府は 幕府を倒した……当時、民衆の大半は天皇についてほとんど何も知らなかったし、封建武士たちも新支配者の権威をそれほど認めていたわけではなかった。古い権威は倒しても、新しい権威はまだ作られていない。社会民心の不安動揺を怖れる新政府が、「神道と皇道による大教宣布」……天皇を現人神だと告諭したのはそのためであった。
3. 神道イデオロギーの強引な押し付け政治は、いたるところで人民の反抗にあって失敗した。――民間から、実学が勃興し、文明開化が叫ばれ、啓蒙主義の教育が台頭してくる。――新政府は、明治5年、いそぎ学生を頒布し、一挙に全国に統一的な義務教育制をしいて、国民皆学をめざした。これは欧米の近代的な学制制度をまねた斬新な施策であった。新政府は大教宣布によって失敗した目的を、この近代的な方法によって追求しようとしたのである。
4. 木下順二、史劇『風浪』。
5. 明治7年、愛国公党が結成され、民選議院設立建白書が発表された。――わが国の思想史上に画期的なできごとであった。――天賦人権論は、人民主権につらなる思想を、わが国史上はじめて、公然と国家にむかって宣言したのである。

6. 政府部内に教育政策をめぐって意見の対立があらわれた。「儒教を国教となして民心を統一せよ」と迫る天皇の侍講元田永孚(もとだながざね)と、開明派官僚の伊藤博文(ひろぶみ)の論争であった。

7. 明治13年、日本全国24万人余の国会開設請願運動を結集した愛国社第四回大会によって、自由民権運動は最高潮に達した。

8. 政府が、自由民権の風潮から教育と軍隊だけは圏外において守ろうとする必死の努力の表れであった。

9. 教科書問題、初代編集局長には、新儒教主義者として知られた西村茂樹(にしむらしげき)が起用され、仁義忠孝主義による修身教科書「小学修身訓」が、まず文部省編集局編としておくりだされた。これと並行して民間教科書のきびしい思想検閲が続けられ
10. 森有礼、明治18年、文部大臣に就任した。下は小学校から上は大学校まで、天皇主義・国家主義によって体系的につらぬく日本式「近代」学校制度を確立した。つまり、欧米から輸入した「近代教育制度」という完成品にたいして、日本の伝統的な国体精神を注入しようというのである。
11. だが、制度だけでは国民の心を真に思想的に獲得することはできない。政府の政略的な欧化主義は、付随的に風俗改良を、文学革新を、演劇改良を、美術革新をよびおこしたが、それとともに、三宅雪嶺(みやけせつれい)、陸羯南(くがかつなん)らの国粋主義と、徳富蘇峰らの教育革新運動をも呼び起こしたのである。
12. 明治23年、教育勅語は、侍講元田永孚と、開明派官僚の大人物井上毅の合作に成るものであった。そして、この勅語を、さらに思想的に強化し、色あげするために、ドイツから哲学を学んで帰って若き東大教授井上哲次郎に、『勅語衍義』(明治24年刊)を書かしめたのであった。ドイツの観念論哲学によって神話的な国体と随順の倫理を合理化したこの書物――明治政府の大きな思想政策上の成功であった。

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