2011年7月4日月曜日

衣笠安喜 『近世儒学思想史の研究』

衣笠安喜 『近世儒学思想史の研究』  法政大学出版局  1976年 昭和51年

はしがき、
P1 わたしは近世儒学思想という、いかにも泰平の時代の産物らしい思弁的で非行動的な対象に、実践的な歴史学の立場から取り組もうとした。思想をできるだけ政治・社会と関連させて理解し、思想の社会的機能ともいうべきものに焦点をあてようとした。
本書の特徴、思想内容の豊富な近世前半期に関して手薄であり、近世後半期に重点をおくことになった。

P2 最近の流行として、社会や生活の側から(政治史的史料や社会経済史的史料から)社会意識や思想を捉えようとする方法、たとえば民衆意識や生活文化の研究において注目されている。――社会史的方法では、高度に体系化された思想の内的論理を説くことはもとより無理であり――二つの方法の交流とその総合

序章 近世思想史の諸段階
はじめに

P1、歴史的事実の究明――とりあえずは大まかにもしろ、その歴史の事実が属する時代の位置づけが不可欠の前題である。歴史研究の諸成果の結集である歴史叙述は、それぞれの時代(時期)の特色を捉え、時代の全体像を明らかにすることの積み重ねの上に書かれるものであろう。

歴史の研究は、時代区分に始まり、時代区分に終わるといわれるのは――歴史研究における時代区分の重要性を強調したものであるといえる。

思想の歴史に、独自な、自体の内在的な発展の法則性などというものはありえない――思想史の側からする独自の時代区分も不必要――経済史や政治史の時代区分を便益的にて適用して間に合うということになる――きわめて便益的に処理していること――思想史と題してあっても、それは思想の個別研究のよせ集め、羅列であるということになり、――一定の問題意識にもとづく研究なども、たとえば「思想の近代化」というときによくみられるように「近代」の基準をあらかじめ設定して、それにどのようにして、またどれほど近付いたかをみる、いわば目標到達過程史の研究であるということになる。

  本章は、思想の歴史自体のなかに内在的な思想発展の法則性を見出そうとする立場から、近世日本思想史の諸段階を画期づけることを試みたものである。――ここでの時代(時期)区分は、恣意的便益的なものではなく、私なりの方法的根拠にもとづいている。方法的根拠とは、第一に、思想発展の法則性は何よりも思惟様式、「ものの見方・考え方」の変化のなかに求められるべきであるということである。
第二には、世界観的な全体性・体系性を一般にそなえる前近代思想においては、思惟の根本にあるのは所与のものとしての自然と思惟主体である人間との関係についての思惟であり、したがって自然と人間との関係をどのように認識し、どのように思惟しているかが時代区分の基軸となりうるということである。

一 第一段階=近世前期(十七世紀――十八世紀前葉)
1 近世朱子学の成立

P3
1. 中世禅林の儒・仏・神「三教一致」論(伝統的思想の内部における近世化の過程を象徴的に示すといってよい)における仏教的思惟の優位から儒教的思惟の優位への転換、ついでは戦国期から近世初期にかけての「天」「天道」(変転極まりない乱世が統一権力の制覇に帰する間の社会動向のなかから生み出された生活経験的観念の一つの集約)観念の現世化が挙げられる。
2. 藤原惺窩や林羅山による近世朱子学の成立は、この伝統的思想と生活経験的観念との二つの近世化の過程を踏まえて、仏教的理念から儒教的(朱子学的)理念を独立させ、また「天」「天道」を朱子学の「天理」と捉えなおすことによってなされた。
3. 三教一致のもとですでに取り込まれていた朱子学理念を仏教的解釈からとき放ち、理解し直すという形をとった。
4. 惺窩や羅山の思想的営為は思想創造であるよりも、解釈の問題であり再発見であったといってよい。他方、生活経験的観念との関係でみれば、生活・社会の各領域にわたる経験的合理的思惟を基盤として、その上に体系的な思想を構築するというふうな理想的な形はとっていない。――惺窩や羅山が踏まえた生活経験的なものとは、統一政権の覇権を合理化するきわめて政治的なイデオロギーである「天道」、それに代表される諸観念であったと見られる――彼らの思想形成には、「天道」に包括されない生活経験的な思惟や観念の多くの部分が組み込まれないで終わったと見られる。
5. 惺窩や羅山における近世朱子学成立の有り方、自主的な思想創造を阻み、権力志向的な思想態度をとった。
1、羅山の朱子学理解の特色。
6. 理気論への疑問、悪の根源はどこにある
7. 羅山は朱子学の理気論のもつ客観的観念論の面を理解していない、朱子学のいわゆる「合理主義」の体系を主体と客観的事物との矛盾対立の統一の理論として理解していない。羅山は実体と現象との間に対立をみる論理を受け入れず、「同一の原理」をいわば「単一の原理」と受け取ろうとしている。(禅的な理解の方向を示していた。)朱子学思想を主体の「心」の次元でのみ受け止める。
2、朱子学批判の意味
8. 中江藤樹(とうじゅ)1608~48、山崎闇斎(あんさい)1618~82、山鹿素行(そこう)1622~85、熊沢藩山1619~91、伊藤仁斎1627~1705、貝原益軒1630~1714――何れも朱子学を批判する、
9. 彼らの思想はおおざっぱに三つに分けられる。一つは山崎闇斎に代表される傾向であって、理気論のうち「理」を重視する。唯理論ないし理一元論ともいうべき。二つには、中江藤樹や熊沢蕃山の場合、彼らは陽明の理気一元をよしとし「理」を「心」に結びつけて理解している点において、羅山に近いものがある。しかし違いは、蕃山では「儒道」と「儒法」とを区別する思考があり、「理」の普遍性が貫徹するのは儒道だけであって、儒法はそれぞれの時代や風土に応じて制作されるものであるとしている。いいかえれば、「理」の普遍性は、「三網五常」の身分制的道徳原理にのみ貫徹するのである。いま一つの傾向は、古学派の系列の思想や貝原益軒の場合であって、ここでは理気のうち「気」が重視される。そして「気」を中心とする理気一元論ないしは気一元の宇宙観・世界観を展開している。伊藤仁斎では、「理」のもつ実体的性格および包括性(理が自然と人間の全領域にわたるものであるとすること、全体性)が否定され、「理」は事物そのものに即して個別的具体的に捉えられている。――朱子学の「理」の普遍性・包括性の否定という点ではもっとも徹底した立場である。「理」は事物の間の条理であるとする山鹿素行にも、また貝原益軒の思想にもみられるところであった。だが、宇宙・世界を一元論的に解釈するという基本的思惟では同一の傾向をみせていたといってよい。
10. 寛文を中心とする時期の諸儒学思想は、理気論の一元的解釈という点て共通しており、さらには「理」のもつ普遍性・包括性が否定されるところまで来ている。――別な言い方をすれば、自然と人間とを同一の「理」の貫徹するとする朱子学の「合理主義」がここでは成立しておらず、否定されているということを示す。
11. 朱子学および朱子学批判の諸思想をも含めて、儒学思想と幕藩制社会の現実との間にはかなりのずれがあったとしなければならない。
3 幕藩社会の思惟様式
12. 朱子学の「合理主義」思想でもって幕藩制社会の現実に対応したのではなかった――それでは幕藩制社会に全面的に対応し、幕藩制社会をその全体像において把握するような思想はどこに求められるべきであろうか?――実はあまり妥当な設問とはいえない。
13. 社会の全体を捉える論理体系を具えていても、それは客観的には一定の立場からする把握であって、その意味ではどんな思想も虚偽意識であることを免れないのである。
14. 「多胡辰敬家訓」
15. 羅山の朱子学思想が幕藩制社会にたいしてもつ思想的役割、ないしその社会的性格が明らかになってくる。結論的にいえば、羅山の当時の社会にたいする思想的役割、自然と人間とにわたる普遍的な原理および規範としての「理」の提示にあるといってよい。理――「上下の理」――「上下の分」、五倫五常の身分制的道徳にほかならない。
羅山の朱子学思想は、幕藩制社会の現実に対応するには不十分なものであるが、幕藩制支配の基軸である身分制秩序、および身分制的道徳の原理を提示するものとしては必要かつ十分なものがあったと評価できよう。だが、羅山の提示は原理的な次元にとどまっており、その思想の成り立ちからみても具体的な現実とのかかわりは希薄である。
16. 幕藩制下の諸思想の基底にある思惟様式を、こころみにつぎの三つの型=段階に区分したい
17. 1、同一の理法=道徳的規範が、自然と人間とにともに内在し連続していて、理想的形態ては合一するとする思惟。「朱子学的自然法あるいは朱子学的合理主義」と呼ばれるものがこれにあたる。
18. 2、自然と人間とを同一の理法=規範が貫いていることを否定する。しかし、政治や道徳など人間社会の全領域にわたる規範の実在を信じ、これが宇宙的自然としての「天」に根拠をもつものであるとする思惟である。ここでは規範はすでに理法ではなく、自然に及ぶ包括性・全体性を失っており、規範の根拠である「天」もまた不可知の彼岸に追いやられていて、世界観としてみれば非合理主義に転じている。――「天秩序思想」と呼んでおきたい。大桑斉「幕藩体制――近世思想史における仏教思想史の位置づけの試み」(『仏教史学研究』)、
19. 3、「天」に由来する規範が人間社会の全領域にわたる普遍的・一般的な規範であることを否定する。しかし、「天」=自然と人間とが原理・根源においては同一であり、同一の生成原理・同一の運動法則で成り立っているとする思惟である。理法=規範による結びつきは否定されるが、しかし根源においては自然と人間とは同一なのである。
20. 1・2から3への封建的思惟の解体の過程(丸山・奈良本両では朱子学的中世的自然法の解体過程)は、東アジア的思惟のもっとも基底的なものへの還元の過程でもあるという二重の意味をもつこととなるのである。3(天人相関)、2(天秩序思想が構築され)、1(朱子学的自然法)
21. 儒教規範がなぜ普遍妥当性をもつのかという問題、すなわち身分制原理の正当性についての考察は理法の否定とともに放棄され、もっぱら「天」の権威にゆだねられているということになる。
22. 山鹿素行や伊藤仁斎は、天秩序思想のもとに、儒教規範が社会の全領域に妥当すべきものであるとする面の理論化、すなわち儒教倫理の普遍妥当性を社会の現実に関わらせて論証することにもっぱら努力を注いだのである。――日本社会に密着した身分制思想を作り出したことはよく知られている通りである。
4、元禄――享保期の特色
23. 荻生徂徠(1666-1728)、朱子学の自然法思想を全面的に否定し、聖人制作説を唱えて作為の論理を展開した。
24. 聖人制作の道の社会規範としての存立の根拠は、やはり天にあり自然にあると見なければならない。徂徠の思想がその思惟様式や思惟方法の新しさに関わらず、全体としては幕藩制支配のヒエラルヒー強化の思想であり、純粋封建制的な復古を理想とする主張であった
25. 聖人制作の具体的内容である身分制秩序の原理が、もはや理性では認識できないことの承認であり、ひいては儒教規範の社会への妥当性は非合理でしか説明できないことが自覚されてきたことを示す。
26. ここでの主要な問題は、儒教規範と社会の現実との乖離が自覚されたこの時代にあっては、非合理主義の思想体系が、現実との関係においてはむしろ「合理的」であり、「合理性」をもつ思想であったとみるべきではないか、という点にある。
二、第二段階=近世中期(18世紀中葉――19世紀初頭)
27. 1、徂徠学からの転回と朱子学
28. 一方で経験主義的な方法に於いて新しい合理主義的思想が提起され、これと対抗しつつ、他方儒学思想においては朱子学の思惟が復活し、封建教学としての再構成が進む。
29. 細井平州(ほそいへいしゅう)(1728~1801)、折衷学派
30. 宝暦―天明期の幕藩制の危機に対応する。平州は徂徠学への批判として、聖人は礼楽を制作しても人心を作ることはできないので、聖人制作では人情・人心を包みきれないと聖人制作説の限界を指摘している。
31. 天地人物のすべてに道徳的本性が内在するとみる朱子学思想は、被治者=生産者への規範強制の論理として、また一般的に庶民教化思想として、はるかに適切なものがあった。
2 経験主義的諸思想の展開
32. 18世紀は、洋学を始めとする経験主義的な学問の興隆期である。
33. 政治経済思想、林子平(はやししへい)経世家。聖人の「利用厚生」は金銀=貨幣獲得を第一とすることであると主張し、また政を今までとは別に改めて「制作」する必要を説いている。
34. 畑中太沖
35. 18世紀の経験主義的諸思想は、その実証的経験的方法がおよぶ領域を次第に拡大させてきてはいるが、しかし身分制秩序・身分制的道徳の問題にまでは踏み込んでいない、それは聖域として残されている。
36. 三浦梅園(みうらばいえん)(1723~1789)、海保青陵(かいほせいりょう)(1755~1817)、新しい合理主義の提唱の動きがある。
三 第三段階=幕末維新期
1、非合理主義の思想体系
37. 幕末維新期、基本的な傾向として、非合理主義の思潮が強まり、とくに国学系の思想では神秘主義=宗教化が見られた。異学禁以後朱子学が一般的な教養として普及したが、ここでも非合理主義への傾斜が顕著であった。
38. 本居宣長(もとおりのりなが)(1730~1801)、世の中のことは「賢しら」ではわりきれないと儒学思想の理性主義を批判し、世の中のことはなにごとも人智では測りがたい神々の「しわざ」であるとした。
39. 平田篤胤(1776~1843)、篤胤の思想は国学の儒教化であるといわれるが、事実彼の説く日常的生活倫理は、儒教倫理そのままであった。人民すべてがそれぞれの家業に専念し、封建倫理をふみ行い、公儀の掟を守ることが天皇への奉仕であるというのである。
40. 篤胤の思想のイデオロギー的性格を、家職中心に考えられたところの身分制道徳を、宗教的世界において基礎づけることによって補強した封建教学と規定することができよう。
41. 佐藤信淵(さとうのぶひろ)
2 変革の論理
42. 幕末維新の変革を指導した思想は、儒学・国学(神道)・洋学の諸思想である。これらの諸思想は社会思潮としてもまた一個人の思想内部においても複雑に絡まりあっていて、このうちのどれか一つに主導的地位を与えることはおそらく事実に反している。
43. 思惟様式からみるならば、洋学の思惟は幕末期においてはまだそれほど定着せず――維新の変革は洋学的思惟の上に構想されたとは言いがたく、「東洋道徳・西洋芸術」の言葉が象徴するように、その政治思想等々の思想内容が儒学的(ないし国学的)思惟の上に接木(つぎき)されるといった形で、一定の、しかしその限りでは重要な役割を果たすに止まったのである。
44. 衣笠安喜「宗教と幕末民衆運動」、『国文学解釈と鑑賞』 1971年12月
45. 幕末の儒学思想に共通に見出せるのは、朱子学の「理」のもつ規範的性格の否定である。典型として、洋学を形而下の物理の学、儒学を形而上の倫理の学とし、形而下の物理を究めることを放棄して、――朱子学の「理」がもつ論理上の包括性=道徳の優位性は否定されておらず、その点では朱子学的な思惟の掣肘(せいちゅう)のなかにあって彼らの思想の虚偽性を強めることになる。彼らでは「理」は規範ではなく、一方では「天理」、他方では「心即理」の抽象的理念的実在であるにすぎない。ここでは「万物一体」「物我一体」が説かれても、それは規範を媒介とする「一体」なのではなく、根源・原理における合一にほかならない。――「天人相関思想」
46. 規範の一切を排除する「天人相関」の思惟のもとでは、尊王攘夷・公武合体・尊王倒幕などの幕末政治史を彩る諸思想が展開される。
47. 横井小楠では、同じく規範を排除する「天人相関」の思惟のもとに、封建的政治の典型であるべき「堯舜三代の治」を「三代之気象」「三代之心」と心の次元に捉えなおした上で、西欧諸国の共和政治がこれと「符合」するものと賛美され、あるいは「天地之正理」として公儀政体論が展開されることにもなるのである。
第一章 朱子学と幕藩制社会
一、林羅山の朱子学
1、羅山の朱子学理解
48. 「羅山随筆」では、必ずしも無条件な朱子学の信奉者ではなく
49. 宇宙論=理気論、明治以来、西欧近代哲学の知識でもって、これを解釈しようとする試み――理気論を存在と当為という哲学の基本問題においてとらえつつ、西欧哲学概念の安易な適用をさけ、朱子学特有の論理のなかに立ち入って内在的に理解しようとした安田二郎の論稿をあげることができる。――「中国近世思想史研究」
50. 思想の歴史性を捨象する欠点
51. 守本順一郎、朱子学をアジア的社会における封建的思惟と捉え、名分論を基本視角とする朱子学の論理構造が、中国宋代社会の構造的特質に根差すものであることを明らかにした。
52. 存在世界と「意味」世界

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