2010年5月11日火曜日

史料演習 一



兼て通信なき異国の船日本の地に来る(きたる)時は、或は召捕(めしとり)又は海上にて打払ふこと、いにしへ(古)よりの国法にして今も其掟(おきて=律法、法則)たかふ(違う)ことなし、仮令(たとえ)我国より漂流したる人を送り来るといふとも、長崎の外の湊(みなと)にては上陸のことをゆるさす、又異国の船漂流し来るは、兼てより通信ある国のものにても、長崎の湊より紅毛(こうも)船をして其本国に送りかへさしむ、されとも我国法(こくほう)にさまたけあるハ、猶ととめてかへさす、亦国初より通信なき国よりして漂流し来るは、船は打くたき(打ち砕き)、人は永くととめてかへすことなし、しかれとも遥々我国の人を送り来る所の労をもおもひ(おもい)、且は(または)我国の法をもいまた(いまだ)不弁(わきまえず)によりて、此度(このたび)は其侭かへすことをゆるさるるの間、重てハこの所にも来るましき也。

一(ひとつ)国書持来ることありとも、かねて通信なき国は国王の称呼もわかりかたく、其国の言語も文字も不通(通じず)、貴賎の等差もわかち難けれは、をのつから其礼のたたしき所を得かたし、我国にてハ敬したることも、其国においてハ疎慢にあたらむ(あたる)もはかるへからされは、国書の往復はゆるしかたき也、今度(このたび)漂流の人を送り来るを拒みてさいふ(然いう)にはあらす、此地より通信のゆるしかたきを以てなり。
一つ 江戸江(へ)直に(じかに)来ることも亦ゆるしかたし、其所以(ゆえん)は、古(いにしえ)より通信通商の国といふとも定(さだめ)あるの外は猥(みだり)不許之(これをゆるさず)、仮令押て来るとも皆巌にあつかいて、いつれの湊にてもすへて言の通る趣はあらすして却て事をそこなふへき也、此度蝦夷地よりして直に江戸江(へ)入来るへきとの其国の王命なるよし(由)をひたすらにいひ(いい)つのり(募り)て、今告しらすることの趣にたかひ(違い)なは、却て其国の王命にもたかふにおなし(おなじ)かるへし、如何(いかが)にとなれは、異邦の船ミゆる(見ゆる)ときは浦々厳重にして、或はとらへ、又は打ち扱ふ掟(おきて)なれは(なれば=ので)、交り(まじわり)のむつまし(睦まじい)からむ(絡む)ことを乞求(こいもとめ)て、却て害をまねくひひとしかるへし、されは其国の王命にもたかふとハいひつへし、今かくのことく(ごとく)いひさとす(諭す)件件の旨趣もうけひかす(受け引かず)は、其期に臨みては悔おもふとも詮なかるへし(詮もない、ないの連体形、なかる、なき)
一 爰に江戸官府の人来りて我国の法に告げしらするは、漂流の人を遥々送来る労をもねきらひ、且は其国の人々をしてことの趣をあやまたせしと也(あやまる)、送来る所の人はもとより江戸官府の人にわたすへしとの(という)旨をうけし由なれば、ここにてわたさん(ん~推量の助動詞)も其子細(しさい)あるまし、されと我国法によりて其望所をゆるさされば(ゆるさざれば)、また送り来る人をもわたさしといわむか(況か=言うまでもない)、さらは(然らば)強てうけとるへきにもあらす、我国の人を憐れさる(あわれざる)にはあらすといへとも、夫か(が)為に国法をみたる(乱る)へからさるかゆへ也、此旨了解ありて其思所にまかすへきよし也。病ありて、不連来(つれ来たらず)漂流の人二人も又此所に送り来るといふとも、重ては此沙汰に及かたし、長崎の外にてはすへて取上なき旨をよく可弁(わきまえるべき)なり、長崎の湊江(へ)送り来るとも我国の地法見ゆる所は乗通る(のりつじる)へからす、洋中を通行すへし、先に告しらすることく(ごとく)、浦浦にての掟あれは(あれば=ので)おろそかにおもひてあやまることなかれ(勿れ)と也
一 長崎の湊に来るとも、一船一紙の信牌なくしては通ることかたかる(かたいの連体形)へし。また通信通商の事も定置たる外猥ゆるしかたき事なれとも、猶も望ことあらは、長崎にいたりて、其所の沙汰にまかすへし、こまかに言さとす(いい諭す)、ことの旨趣をくわしく了知ありて早々帰帆すへき也。此たひ贈来るところの書翰、一つは横文字にして我国の人しらさる所也、一つは我国の仮名文に似たりといへとも、其語通しかたき所も多く文字もまたわかり難きによって、一つの失意を生せむもまた怪しかるべしを以てくはしき答に及ひかたし、よって皆返しあたふ、この旨よくよく可心得(こころうべき)もの也。
背景

1,俄国派遣使节,宽政3年,1791年。Adam Laksman。宽政4年9月5日,根室入港。松前藩招待。10月,上告幕府,请求指令。幕府的态度(如上文)。第二年宽政5年正月,特派石川,村上,6月与俄国使节交涉。三次。第一次6月21日,使節から松前藩主に提出した文書を申渡書とともに返還。22、23日の両日は幕吏が使節の旅宿に訪れ、宣諭使から交付した文書を反複詳細に説明し、誤解がないように努める。

24日、石川らは、再び使節を引見した。この時、ラックスマンは国書を提出したが、これを長崎以外では受理することができないとしてしりぞけ、きたる晦日(みそか三十日)には帰途につくべきことなどを申し渡した。また大麦、小麦、蕎麦などを船中手当として贈与すべき旨を伝達し、この夜漂流民を受け取った。最後の27日、使節が来て別れを告げたので、石川らは長崎に来航する場合の信牌を与えた。




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