2010年5月10日月曜日

林子平と『海国兵談』

林子平

はやししへい[173893]

 江戸後期の経世家。「寛政(かんせい)の三奇人」の1人といわれ、奇行もあって知られる。幕臣岡村源五兵衛(げんごべえ)の次子として、元文(げんぶん)3621日江戸に生まれる。名は友直(ともなお)。父が浪人したので、兄嘉膳(かぜん)とともに叔父の林従吾(じゅうご)に養われ、林姓を名のる。兄が仙台藩に仕官することになり、1757年(宝暦7)仙台に居を移した。

 1764年(明和1)朝鮮使来聘(らいへい)を聞き、急に江戸に赴く。『仙台閑話』を著す。翌年、第一上書「富国建議」を、当時財政難に苦しんでいた仙台藩に提出し富国策を説いた。学制、武備、制度、地利、倹約などの九篇(へん)からなる。国政の第一は人材であり、人材は学問によって生ずるから、国政の第一は学政であるとした。「地利」では仙台藩の潜在的生産力を基に策をたて、武備=富国強兵は「国政の第一成事(なること)」とし、武士の土着を説いた点に先駆的特色がある。75年(安永4)長崎に行き、オランダ人からロシア南下の形勢を聞き、国防の必要を痛感、地理学・兵学に志す。その後二度長崎に学び、江戸では大槻玄沢(おおつきげんたく)、宇田川玄随(うだがわげんずい)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら蘭学(らんがく)者と交遊し、「国際的」感覚を身につけた。

 1777年『海国兵談』の稿をおこす。85年(天明5)国防の見地から『三国通覧図説』を著し、朝鮮、琉球(りゅうきゅう)、蝦夷(えぞ)、小笠原(おがさわら)諸島の地理を記す。また「富国策」(上書)を藩に提出。翌年『海国兵談』六巻を完成、自費出版。海国日本にふさわしい国防体制、武備を説いた、外圧に対する先駆的著述である。この年ロシアの軍艦が蝦夷にきた。幕府は同書を体制を揺るがす危険の書とみなし、925月、板木(はんぎ)・製本を没収、子平に仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ)を命じ、12月囚人として江戸に送られた。このとき「親も無し妻無し子無し板木無し……」と詠んだ歌は有名。また「いろは歌」に「りひはただひいきの沙汰(さた)を取りのけて理の当然を明白にせよ」と詠んだあたり、近代的理性・知性の芽生えを感じさせる。寛政(かんせい)5621日、不遇のうちに没。

[塚谷晃弘]   日本大百科全書

(親もなし妻なし子なし板木なし金もなければ死にたくもなし(「六無の歌」)

  ポイント

1,幕府什么会生气?

2,林的思想的系。海国兵是受到了荻生徂徠的兵書『録(けんろく)』影響。此外呢?

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