2010年5月27日木曜日

伊藤東涯『古今学変』 

1,伊藤仁斎

いとうじんさい

[16271705]
寛永(かんえい)4720日、京都に生まれる。祖父の鶴屋(つるや)七郎右衛門はで財をなし、里村紹巴(じょうは)・玄仲(げんちゅう)に連歌(れんが)を学び、妙心寺の大化(たいけ)・一冲(いっちゅう)に参禅した。父は次男で別家して鶴屋七右衛門を称した。母の那倍(なべ)の父は幕府の連歌師里村玄仲、母は角倉(すみのくら)一族の医師吉田易安(いあん)の娘。那倍の姉妹は宮廷出入りの医師蒔絵(まきえ)師に嫁いでおり、仁斎自身ものちに本阿弥(ほんあみ)家と近親の尾形家から妻を迎えている。仁斎は、父方からは教養と閑暇を尊ぶ京都の富裕な町人の、母方からは京都の上流文化人の精神的影響を受けて育った。彼は家人の願いに反して医師を嫌い、儒学者を志した。青年時代には独学で朱子(しゅし)(朱熹(しゅき))の書を読み、その『敬斎箴(けいさいしん)』に傾倒して敬斎と号し、さらに1655年(明暦129歳)には松下町に隠棲(いんせい)して陽明学から仏老の教えに入り、白骨観法を修め、対人道徳(人倫の道)は浅薄でいうに足らぬと考えた。しかし3年後の58年(万治1)に『仁説』を書いて、仁の本質は愛であるといい、号を仁斎と改めた。62年(寛文236のとき家に帰って鶴屋七右衛門を襲名するとともに「古義堂」塾を開き、終生町(まち)学者となって諸侯の招きに応じなかった。宝永(ほうえい)231279歳で没した。

 仁斎は塾における同志的会合を中心に、京都の公卿(くげ)、専門文化人、根生(ねおい)の分限者たちと文化的教養を楽しむ社交会(サロン)をつくり、その雰囲気のなかで古義学を大成していった。彼は『論語』『孟子(もうし)』2書を後人の注釈によらず直接に熟読精思して、孔子・孟子の思考方法、文章の作り方を会得したうえで、その字義を正しくとらえるとともに、孔孟の思想の真髄をつかもうとした。彼は『論語』を「最上至極宇宙第一書」、『孟子』を『論語』の義疏(ぎしょ)といい、『大学』は孔子の遺書ではない、『中庸(ちゅうよう)』の終わりの数章は漢儒の雑記、前半は『論語』の旨趣には合致すると説いた。しかし仁斎は学者よりは思想家であった。自分の「生活を脚注」として『論語』『孟子』を読み、孔孟の精神に迫ろうとする「古義学」的方法は、彼の学問に時と所と人の刻印を押すことになった。彼は、朱子学の説く社会の身分秩序を守る心(義)とその秩序の主宰者に帰向する心(敬)を退けて、社会成員が身分的相異を超えて自他不二の境地をつくる情意的な仁愛を尊んだ。仁斎にとって聖人はその愛を天下に満たす宇宙最大の文化人で、その理想郷の王道楽土は政治と権力のないユートピアであった。仁斎は、封建的倫理的政治学であった儒教から元禄(げんろく)京都の社交会の体験を濾過器(ろかき)として、封建性と政治性を取り去り、かわりに人類性と社交性を与えて、儒教を社交的倫理の学につくりかえたのである

 仁斎は朱子の理気二元論を排して気一元論を説いているが、自分はしいていえば気一元論をとるが、日常経験を超えた存在は考えないほうがよいと述べている。この態度は古医方(こいほう)に影響を与えた。後藤艮山(こんざん)、香川修庵(しゅうあん)が元気の溜滞(りゅうたい)に、吉益東洞(よしますとうどう)が一毒の所在に病因を求めながら、元気や毒のなんたるかは穿鑿(せんさく)に及ばぬと経験的実証の立場をとった態度に影響したと考えられる。

 なお仁斎には東涯(とうがい)、梅宇(ばいう)、介亭(かいてい)、蘭嵎(らんぐう)の4男子がいて家学を継承したが、仁斎自身の著書としては『語孟字義』『童子問』『大学定本』『中庸発揮』『論語古義』『孟子古義』『古学先生文集・詩集』その他があり、その多くは没後東涯によって刊行された。仁斎の墓は洛西(らくせい)の二尊院(にそんいん)にある。


2,伊藤東涯

いとうとうがい

[16701736]

江戸中期の儒学者。伊藤仁斎(じんさい)の長男として寛文(かんぶん)10428日、京都堀河(ほりかわ)に生まれる。名は長胤(ちょういん)、字(あざな)は源蔵(げんぞう)。慥々斎(ぞうぞうさい)、東涯と号した。仁斎の4人の男子はみな家学を継いだが、長男の東涯と四男の蘭嵎(らんぐう)が優れ、「伊藤(堀河)の首尾蔵(しゅびぞう)」といわれた。東涯は温厚、篤実(とくじつ)、円満で、幼時より父仁斎から家学を受け、また父に伴われて京都の公卿(くげ)・文化人・富商たちの社交会(サロン)に出入りして、仁斎学の精神的基盤に親炙(しんしゃ)した。東涯は父仁斎の死(1705)によって36歳で古義堂塾を継ぎ、紀伊侯の招きを辞して幼弟の養育にあたり、父同様、生涯、町(まち)学者として仁斎学を忠実に守り、堀河塾の発展に努めた。死後、紹述(しょうじゅつ)先生と諡(おくりな)された。東涯は、父仁斎が独創的な思想家であったのに対して、博覧綿密な学究であった。湯浅常山(じょうざん)は、『文会雑記』に「東涯の学問は仁斎に倍せり」と評している。

 彼の業績は二つに分かれる。

(1)父の稿本を父の門人たちと協議して整理補正して『語孟字義(ごもうじぎ)』『論語古義』『孟子古義』『大学定本』『中庸発揮(ちゅうようはっき)』や『古学先生文集・詩集』を刊行した。また『論語古義標註(ひょうちゅう)』『語孟字義標註』『童子問標釈』『大学定本釈義』『中庸発揮標釈』などを著すとともに、古義学を布衍(ふえん)解説した『弁疑録』『古学指要』『学問関鍵(かんけん)』『訓幼字義』などを出板した。

(2)東涯の得意とする研究領域の書で、思想史として『古今学変』を著して家学の思想史的位置づけをし、制度史として『制度通』、語学研究書として『操觚字訣(そうこじけつ)』、儒学研究書として『周易経翼通解(しゅうえきけいよくつうかい)』などを著し、生涯著述に精進して、53240余巻の書をつくり、『紹述先生文集・詩集』30巻、遺稿40巻を残した。

 那波魯堂(なはろどう)は『学問源流』に、仁斎・東涯の学を仁斎派・東涯派といい、「元禄(げんろく)の中比(なかごろ)より宝永(ほうえい)を経て、正徳(しょうとく)の末に至るまで、其(その)学盛(さかん)に行はれ、世界を以(もっ)て是(これ)を計らば、十分の七と云(い)ふ程に行はる」と述べている。門下からは青木昆陽(こんよう)ら多数の人材が輩出した。元文(げんぶん)元年717日に没した。


3,韩愈《原道》

A,博爱-仁。行而宜-义。由是而之焉之-道。足乎己,无待乎于外-德。

B,孟子醇乎醇,荀与扬也,择焉而不精,语焉而不详。


1. 藤原常雅 绍述先生行状 東涯『紹述先生文集』

2. 父子作品的特殊关系,需要分疏。父子是否可以看成完全一致?

3. 佐久間 正『徳川日本の思想形成と儒教』。

仁斎の号の敬斎から仁斎への転換にシンボライズされているように極めて興味深いものがある。

4. 而して今日の学、復た古の学と同じからず。漢代に一変し、宋に再変。

A.周公以前~礼記及び制度の整備・治道一致の時代。

B.周公以後~道学祖述・道学伝播(でんぱん)の時代。

C.周の衰退、秦の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)~礼学衰亡の時代。

5. 治与道的结合和分离为线索,把握儒学的动向。

A.漢代、治道分離(儒学成为专家之学)、五経思想の横行。

B.六朝、仏教、老荘思想の横行。

C.宋代、細微抽象の思弁、空理、空論。

D.伊藤古義学――自分でどう位置付けるのか??

6. 对变化的具体内容的探究,还是对为什么引起变化的原因探究。

7. 古义学认定的道的特质——「人倫日用の間に在る」――古义学的道,也就是“人伦日用的规范了

8. 人的道,就是人伦。






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