2010年5月10日月曜日

寛政異学の禁

 江戸後期、寛政の改革の一環として行われた学問統制。1790年(寛政25月、幕府は大学頭(だいがくのかみ)林信敬(のぶたか)に対し、昌平黌(しょうへいこう)においては正学たる朱子(しゅし)学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達した。これを寛政異学の禁という。

 江戸幕府は成立以来、儒学とくにそのうちでも朱子学を、封建教学の根本とした。しかしやがて、時代の趨勢(すうせい)にマッチしない朱子学に飽き足らぬ人々が多くなり、「知行合一(ちこうごういつ)」を説く実践的な儒学である陽明学や、直接に孔子、孟子(もうし)の経典を研究することによってその真の精神を明らかにしようとする古学派や、さらには、いずれの学派にも偏せず学問研究法の自由を主張する折衷派など、朱子学以外の学問が盛んになった。これに対して、幕府の教学体制の中心である林家(りんけ)には人材が出ず、朱子学は衰える一方であった。寛政の改革を主導した老中松平定信(さだのぶ)は、このような情勢に対処して、封建教学再建のために朱子学を振興し、これを官学として明確に位置づけるために異学の禁を断行したのである。幕府は朱子学者の柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(かんせん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)らを登用し、さらに美濃(みの)岩村藩主松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)を、信敬没後の林家の養子に迎えて大学頭に任じ(林述斎(じゅつさい)という)、昌平黌の学制改革を推進させるなど、教学体制の強化を図った。異学の禁は、あくまでも幕府内部の規制であり、諸藩に強制したものではなかったが、冢田大峯(つかだたいほう)、豊島豊洲(ほうしゅう)、亀田鵬斎(ほうさい)、山本北山(ほくざん)、市川鶴鳴(かくめい)らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称された。しかしこうした反対にもかかわらず、幕府の手厚い保護により朱子学がいささかなりとも復興したことは否めぬ事実である。なお、異学の禁は、以上のような単なる学問統制にとどまらず、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとするものでもあった点が注目される。

[竹内 誠]  日本大百科全書

寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)とは、1790年(寛政2年)、江戸幕府老中松平定信が寛政の改革で行った学問の統制である

 田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学とし、当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として禁じた。幕府の学問所である昌平坂学問所の講義や、役人登用試験も朱子学だけで行わせた。

 諸藩の藩校でもこれにならうものも出、朱子学に反対する学問を唱えていた儒者は生徒が少なくなり困窮したものもあったという。

 なお、異学の禁に反対した儒者五名(亀田鵬斎、山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴)を特に寛政の五鬼という。

 昌平坂学問所では異学の講義を禁じられたが、国内の異学派による学問や講義を禁じられたわけではない。

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ポイント

 1,异学之禁非常晚,1790年,也就是幕府倒台的前78年。不78年,3代人的时间,称官学的朱子学的影响不可不大。

2,异学之禁的理由,朱子学的上下关系,君臣秩序的重。以及重思想??朱子学中有重思想么?

3,作政策的学问统制。官吏登用試験(小科??)

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