2010年5月17日月曜日

横井小楠――儒学的正義とは何か

横井小楠――儒学的正義とは何か  

松浦玲   2000年  朝日選書 645

まえがき

原版: 19762月。朝日評伝選『横井小楠』

一 時習館改革

1. ヨーロッパ、アメリカ型近代の攻勢に対し、アジアの思想を代表して立ち向かうだけの足場を、小楠は築いていたわけである

“过度移情”了吧。在小楠那里,欧美型的近代化构不成一个充分的概念吧。最多只是面对这外来势力的挑战,提出应做反应的策略。

2. 最も理想主義的に読み替えた儒学の政治思想によって、アジアとヨーロッパの双方の政治的現実を、それぞれに批判するのである。彼は、自分の理念に基づいて新しい世界を生み出そうとし、その希望を最後まで捨てない。

东洋道德,西洋艺术的调和,折衷--构成自己的理想像。这个不难理解。

3. 在儒学理想之下,包摄西洋文明的这种态度,十分早熟。在中国,要到戊戌变法前后,才出现这种思想。??洋务运动要如何来看,张之洞

4. 包摄西洋文明的儒学理想主义构想,在小楠被暗杀之后,在日本已没有继承。在进步的理想主义方面,被欧化主义所替代。在对欧洲文化的抵抗方面,被国粹主义所替代。失去小楠的儒学,绝大部分被收纳入教育敕语体现的国粹主义的范围内,或者说被日本中心的独善的亚洲主义强行执行下去。

5. 在明治维新后百年之后的今天,对日本近代化的总过程必须进行批评的探讨,小楠是一个很有意义的案例吧。(明治維新以後百年を超えた今日、その日本近代の総過程が批判的に検討されねばならない)

反思,反省的资格,必要,以及可能性。

6. 小楠本人は、「思想家」と位置付けられて、むしろ「政治家」にしてほしいだろうと思う。あるいは、「儒学者」にしてくると言うかもしれない。

7. 父,150(こく)

8. 米田是容(こめた)=長岡監物(けんもつ)(1812年~)、のちに小楠と共に肥後実学党の中心になる人物。元田永孚(もとだながざね)(18181891

9. 時習館、(1754~)、士風の刷新と人材登用を狙っており、中・下級藩士の場合には時習館での成績が家督相続や昇進に響く。

10. 元田、『還暦之記』。---重要文献。

11. 嘉永5年(1853年)(嘉永6年、ペリー来航)、『学校問答書』でみずから批判する「人才の利政」――学校で政治に役立つ人間を育てあげようとする功利主義――の立場にあったのではなかろうか。

12. 藤田東湖(18061855)との交流。

13. 天保10年(1840)、小楠依然として“歴史主義”的傾向が濃厚である。歴史重視。窮理の経学が得意でなく、歴史が好き。

二 実学党の誕生

1. 天保1212月、処分――逼塞70日。

2. 天保11年帰国 処分 逆境32才。

3. P36「其大要に曰く、道徳は経国安民の本にして而して知識に由て進む。是故に孔門大学の教、格物致知を以て先とす。己れを修め人を治める内外二途の別無し。」

4. P37、「『道就於用不是』とは、平たく云へば、真理は第一義、御都合でお茶を濁してはならぬ、と謂ふ意味です。」道就于用不是——严格主义,反对机会主义。

5. その時の小楠の思想転換、実学党形成の最初。关于实学的考察,源了圓『実学思想の系譜』講談社。为何称之为实学党,这一概念是否对我们正确认识这一组织,产生了弊害?

6. 荻昌国、『集義和書』『宋名臣言行録』『孟子』の三書から摘要して元田に示した。元田もこれに習って三書を抄録、一つの中間的結論として「徂徠の経済は其源本する所無きを看破し、熊沢の経国は王道にして其の学の蘊蓄測るべからざるを敬慕し、韓范司馬の人物を希望し、孟子に至て別出聖人の範囲たるを覚知し、進んで聖人の書を学ぶに志を立てたり」――この力点はどうも、徂徠学はダメだから直接孔子の書によって勉強しなおそう。

7. 元田『還暦之記』、(小楠)、門を杜て書を読み、初め陽明の書を読み直に其学の偏なるを看破し、次に程朱ノ書を読て、其純正なる、聖人の道果して茲に在りと信じ

8. 程朱の学こそが聖人の道

9. 実学党の形成、5人。天保14年と推定。「実学ノ権興」。

10. 正真正銘(しょうしんしょうめい)こまかしのない道徳にもとづく政治でなければ本当の政治ではない。道德优先主义。横井小楠,why说他是阳明学者呢??

11. 誠意正心と治国平天下を大まじめで結び付ける主張に全面的に従っていると言ってよい。徂徠学的な政治主義の悪影響(政治と個人道徳を切り離し)を排除。对统治肥后的徂徕学派的反动。

三、学校問答

1. ペリー来航直前の小楠の思想は、ずいぶんはっきりした形をとってきた。彼は、自分の実学を、全日本的規模で実現しよう、――越前藩、最も有望。

四、有道の国・無道の国

1. 嘉永6年(1853)月、ペリー来航。

2. ペリー来航を機に、小楠らの実学党は、地元の肥後藩でも勢力を回復しかけた。越前など他藩で培った力も、うまく還元されてくる。

3. 『夷虜応接大意』、「天地仁義の大道を貫くの条理を得るに有り」、「有道の国は通信を許し、無道の国は拒絶するの二つ也」、

4. 安政元年(185411月~)二年(1855)における小楠の開国論への転換あるいは動揺。小楠の内部で有道と無道についての評価に転換がおこる。つまり、あの時点でアメリカにたいする認識を改めて、むしろこの時の日本よりよほど有道の国だと判断。

5. 华盛顿,尧舜以来的圣人。

6. 安政二年十一月3日,大地震藤田东湖压死。

7. 安政三年。P137 日本和中国无道,西洋诸国有道。完全逆转。

8. P139  道は天地の道なり、我が国の、外国の、と云ふ事はない。道のある所は外夷といへども中国なり。無道に成るならば、我が国、シナというへども即ち夷なり。

五、富国策

六、国際会議論

1. 文久2年、小楠的な“破約必戦・全国会議・真の開国” VS 幕閣主流の“攘夷奉承”。

2. 文久3年、“全国会議”ではなく“世界会議”、それだけの大道理、大構造の上に立たなければ、いまの政局混乱は打開できない。いや、問題は逆で、政局打開を機に、「全世界の道理」を確立するのが本当の狙いだと見るべきだろうか?

七、大義を世界に

1. 『沼山閑話』では、朱子学批判が真先に置かれているのに注意をひかれる。P249P250

2. 明尧舜孔子之道,尽西洋器械之术,何止富国,何止强兵,布大义于四海而已。

3. 小楠到最后都是儒学者,他想要把他的儒学思想在日本实现,然后扩展到整个世界。

自分を中心として世界に仁義の大道を敷くというほどの大構想をもち、それを本気で実現するつもりだった。

増補1  実学と儒教国家

増補2  アジア型近代の模索

1. 1924 神户 孙文的“大亚洲主义”的演讲。

2. “王道” VS “霸道”

3. 明治32年に勝海舟が死に、34年に中江兆民が死んだあとは、問題の全体を把握できる視野と視角の持ち主が失われ、問題そのものが埋もれてしまった。民国13年=大正13年の孫文の叫びは、むなしいのである。

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