2010年5月13日木曜日

永田广志《日本哲学思想史》。

第四章,中央集权国家形成的诸条件的成长期。

1,从传统思想到近代思想止扬的过程。(梁)
2,马克思主义:生产关系与生产力的不相适应--社会矛盾--阶级斗争--历史进步。
3,松平定信(サダノブ)

江戸後期の大名。寛政(かんせい)の改革を断行した老中。宝暦(ほうれき)81227日江戸で生まれる。田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、8代将軍吉宗(よしむね)の孫にあたる。幼名は賢丸(まさまる)、隠居後は楽翁と号した。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦(さだくに)の養子となり、翌年従(じゅ)五位下上総介(かずさのすけ)に叙任。83年(天明3)養父定邦の後を継いで白河11万石の藩主となり、従四位下越中守(えっちゅうのかみ)に昇進した。おりしも天明(てんめい)の大飢饉(ききん)に際会、白河領内の士庶の困窮もその極に達したが、定信自ら率先して倹約を重んじ、食糧の緊急輸送、備荒貯蓄や人口の増加、あるいは殖産興業を促すなど、藩財政の立て直しや領民生活の安定化を図り、みごとにこの難局を切り抜けた。やがて彼の藩政は、諸大名の間にその名声を高め、老中田沼意次(おきつぐ)失脚ののちの876月、御三家(ごさんけ)および一橋治済(ひとつばしはるさだ)の推挙により老中首座(筆頭)となり、侍従に任じ、いわゆる寛政の改革に着手。翌年3月には将軍補佐の大役をも与えられた。松平信明(のぶあきら)、本多忠籌(ただかず)、戸田氏教(うじのり)、松平乗完(のりさだ)、太田資愛(すけよし)ら同志の譜代(ふだい)大名を幕閣の中枢に登用し、彼らと合議しつつ幕政の振起に努めた。財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令(きえんれい)、旧里帰農奨励令、七分積金令、人足寄場(にんそくよせば)設置令、出版統制令、風俗匡正(きょうせい)令、物価引下令、異学の禁、江戸湾防備計画等々は、いずれも定信が断行した寛政の改革の有数の政策である。幕府財政再建のために農本主義を基調としているが、都市政策思想統制にもみるべきものが多い。93年(寛政57月老中ならびに将軍補佐役を辞職したが、左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に昇任、家格も溜間詰(たまりのまづめ)に昇格、ふたたび白河藩政に意を用いることとなった。彼の辞職の理由は、光格(こうかく)天皇が実父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとして定信に反対された尊号一件、および将軍家斉(いえなり)が実父一橋治済を大御所に迎えようとして定信に反対された大御所一件などが絡んでいるといわれる。しかし、その背景として、「それみたか、余り倹約なすゆえに、おもいがけなき、不時の退役」「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの当時の落首にもみられるように、彼の極度の緊縮政策に対する士庶の批判も考えねばならない。こののち白河藩主として、藩校立教館の拡充や、1810年(文化7)には会津藩とともに江戸湾防備の幕命を受け、房総沿岸に台場を築造したりしたが、12年嫡子定永(さだなが)に封地を譲り、晩年は江戸築地(つきじ)の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送った。文政(ぶんせい)12513日没。72歳。江戸深川の霊岸寺に葬り、のち伊勢(いせ)(三重県)桑名の照源寺に分骨した。(日本大百科全書)

4,幕府、資本主義要素育成に傾斜。明治新政府继承很多旧幕府时代的政策。

5,以“宽政改革”为契机,在日本,儒学与国学的地方发生了逆转。国学超越儒学??(黒)

6,「彼(永田)も、思想の発展を無視することはできない。」「伝統への批判と継承とこの二つのものを統一的な把握することが彼の思想史においてもやはり中心的な課題となる」。竹内良知『昭和思想史』、P322〜323。

7、『日本封建イデオロギー』、戦後版、尾藤解説。尾藤と永田の関係。(黒)

8、水戸学。

  近世水戸藩に醸成された独得の学風を意味し、その名称は天保(てんぽう)時代(183044)から幕末にかけて、「水府(之)学」「天保学」「水戸学」などと、主として水戸藩以外の人々からよばれたもので、広く水戸学の名称が普及したのは明治以後である。水戸学の沿革については種々の説があるが、一般的なものは、2代藩主徳川光圀(みつくに)の修史事業に携わった多くの学者らの間に形成された学風を前期水戸学と称し、9代藩主徳川斉昭(なりあき)の天保期の藩政改革のなかで大成された学風を後期水戸学と称するものである。しかし体系的な独得の学風という点を重視すれば、いわゆる後期の学風を水戸学と称し、前期のそれを水戸学の淵源(えんげん)とすることになる。いずれにしても光圀による修史事業を中心に展開した学風では、歴史尊重国体観の高揚尊王賤覇(せんぱ)の思想などに特色がある。後期では、18世紀後半の異国船の接近にみられる西洋諸国の進出と幕藩制の動揺による内憂外患に対する危機意識が、独得の学風形成の根底にあったことは否めない。こうしたなかで水戸学大成の端緒となったのが藤田幽谷(ゆうこく)の国体論と攘夷(じょうい)思想である。それは、斉昭の天保改革を推進した藤田派の会沢正志斎(あいざわせいしさい)や藤田東湖(とうこ)らによって継承発展させられ、斉昭の名で公表された『弘道館記(こうどうかんき)』に結集されたとみられる。幕末の政治運動の支柱とされる尊王攘夷論は、この水戸学の中核をなすものと考えられる。[瀬谷義彦]

8、光圀が編纂に携わった『大日本史』と宋学の名分論と観念論が結びついたもので−−過激な政治哲学を説いたものではありません。徳川後期−−鎖国、御三家の中で特別に小さくて、官位の低い地位への不満、列強の脅威に対抗−−水戸学”怪物化” (竹)

9、第五節:

 ア、水戸学と水戸藩の関係。藩内部の党争の激化に伴い、家臣団の統制のために名分思想を用いる。一方では御三家としての立場があり、また他方では反対派の運動と結びついていた。後期水戸学が名分論の延長にあるが、根底には国民主義の成長がある水戸学は封建制そのものにたいしては批判的とはあり得ない。「内部改革の問題」の提起にとどまる。水戸学は名分論と政治上必要な手段としてのイデオロギーとしての学問との折衷である。水戸学は「支那崇拝の迷夢」とは無縁であったが、「聖人崇拝」から抜けれ切れていない。

 イ、水戸学と政治との関係。政治的理論など。

 ウ、哲学の弱点、「名分論に基づいた攘夷主義の政治の綱領の定式化」「哲学理論としては何の見るべき物を持たない」。

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